大町ルート
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大町ルート(おおまちルート)とは、北朝鮮による拉致問題においてしばしば指摘されるルート[1]。本来は千葉県海上町(現:旭市)周辺から東京・甲信越地方を経て新潟県・富山県の日本海側に抜ける物流ルートで[1][2]、房総半島の水飴や砂鉄の生産に在日朝鮮人がたずさわり、このルートを用いて当該商品が北朝鮮に輸出されたところから[1][2]、在日コリアンがこのルート沿いに住みついたと考えられる[2]。「大町」は、経由地である長野県大町市にちなむ。北朝鮮による日本人拉致事件や拉致の可能性を排除できない失踪事案がこのルート沿いで多発している[2]。
特定失踪者問題調査会の兵本達吉は、北朝鮮による拉致工作は、本国から来た4人1組の工作員を、10人程度の土台人が幇助する例が多いと指摘しており[3]、物資の運び出しルートである大町ルートと拉致被害者・特定失踪者が多い地域が重なることは、このルート上に土台人の拠点があったのではないかという推測を可能にしている[4]。
概要
「大町ルート」とは、千葉県海上町・飯岡町周辺から東京を経て山梨県甲府市、長野県大町市を経由し、富山県や新潟県へ抜ける物流ルートである[1]。
特定失踪者である加瀬テル子が失踪した1962年(昭和37年)当時の海上町周辺では、水飴、砂鉄が大きな地場産業となっており、在日コリアンの企業・労働者が多かった[4]。これは、第二次世界大戦末期、日本本土へのアメリカ軍上陸を想定したとき、九十九里浜が上陸地点の一大有力候補になると考えられたため、各種軍事施設の構築が急務となり、その工事のために動員された朝鮮半島出身者が戦後も残留したものと考えられる[4]。水飴は大戦中のみならず戦後もしばらくは国家統制品であり、現在よりもはるかに貴重品とされた[2]。砂鉄生産は1960年代にさかんになり、『キューポラのある街』として知られる埼玉県川口市にも運ばれていた[2]。以上のような背景の下、産業が形成され、生産された産品は中央本線・大糸線およびこれに沿う幹線道路などによって日本海側に輸送され、北朝鮮に輸出されていた[4]。
2004年(平成16年)10月、TBSテレビの番組『報道特集』の取材によれば、脱北者が北朝鮮から持ちだしたとされる写真(「拉致された日本人女性で、同じ拉致被害者と結婚している主婦」の写真)が、鑑定の結果、1962年に17歳で失踪した加瀬テル子である可能性が極めて高いことが明らかになった[5]。また同じ脱北者が「同一の人物」とするもう1枚の写真も、加瀬である可能性が高いと判断され[6]、特に、右目下内側にあるほくろ(別資料では「赤あざ」)が決め手となった[5]。加瀬の家族から鑑定依頼を受けた東京歯科大学の橋本正次(法人類学)が、失跡前の加瀬の写真と照合した結果、「酷似する個所が非常に多く、同一人の可能性が高い」と判断する鑑定結果を家族に連絡した[7][8]。この流出写真が加瀬である可能性が濃厚であることから、拉致犯罪における「大町ルート」が注目されるようになった[6]。
山梨県甲府市に住んでいた山本美保の拉致もこのルートを用いた犯行と指摘されている[5][注釈 1]。彼女は1984年(昭和59年)6月、「図書館へ行く」と言ってオートバイで出かけたまま行方不明となったが、失踪から4日後に新潟県柏崎市の荒浜海岸で彼女の所持していたセカンドバッグを拾得したとの報を家族が受けている[9]。失踪当時、彼女は20歳であった[9]。彼女についても、脱北者権革による北朝鮮での目撃証言がある[9]。
京葉地区
京葉地区では、上述した1962年失踪の加瀬テル子のほか、「救う会」が拉致被害者として認定している古川了子(千葉県市原市)が1973年7月7日に失踪しており、彼女については、元北朝鮮工作員の安明進による目撃証言がある[10]。関谷俊子、遠山常子、峰島英雄ほか多数が千葉県で失踪している。