権革

From Wikipedia, the free encyclopedia

生誕 (1959-04-21) 1959年4月21日(66歳)
朝鮮民主主義人民共和国の旗 朝鮮民主主義人民共和国
国籍 (1999年亡命)大韓民国の旗 大韓民国
職業 北朝鮮国家安全保衛部指導員(秘密警察、大佐)
クォン・ヒョク
権 革
生誕 (1959-04-21) 1959年4月21日(66歳)
朝鮮民主主義人民共和国の旗 朝鮮民主主義人民共和国
国籍 (1999年亡命)大韓民国の旗 大韓民国
職業 北朝鮮国家安全保衛部指導員(秘密警察、大佐)
テンプレートを表示

権革(クォン・ヒョク、朝鮮語:권혁、1959年4月21日 - )は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の元国家安全保衛部(現、国家保衛省)指導員[1]1999年11月に大韓民国(韓国)に亡命した脱北者[1]2003年日本マスメディアに対し北朝鮮における日本人拉致被害者について証言した[1]

1959年4月21日、北朝鮮の咸鏡南道新浦市に生まれた[1][2]。彼の母は、戦前、日本で生活した経験のある女性だという[2]金正日の側近で朝鮮人民軍の上級幹部だった叔父に持つ彼は軍人の道に進み、1974年から76年にかけて、朝鮮人民軍特殊訓練所短期訓練所で訓練を受け、1976年朝鮮労働党の党員となったのち、1977年には国家政治保衛部傘下の57軍校政治局に配属された[1]

57軍校は、権革によれば、朝鮮半島有事の際に在日アメリカ軍軍事基地を肉弾攻撃することを任務とし、「カラス部隊」とも称されていた[1]。57軍校は「ジャンパー部隊」の元隊員らを中心に創設された特殊機関で、創設の契機となったのは、1976年8月、板門店で北朝鮮警備兵がアメリカ軍警備兵らを殺傷したポプラ事件(ポプラの木蛮行)であった[1]。この事件は、金日成存命中に後継者として内定した金正日が「朝鮮サラム(人)の気概を見せてやれ」「米国のやつらを懲らしめてやれ」と部下たちに命じたことで起こったといわれている[3][注釈 1][注釈 2]

特攻任務をともない、入隊したら二度と生きてはもどれないといわれていた57軍校(「カラス部隊」)での勤務に、息子の身を案じた母親が軍幹部だった彼の叔父に配置換えを頼み込んだ[1][2]。その結果、権革は1978年、57軍校傘下の泰川軍官学校に配属されて再教育を受け、1980年からは国家保衛部に帰属する秘密警察、5454部隊に配置された[1][注釈 3]。そして、1983年から1997年までの約14年間、国家安全保衛部の保衛指導員を務め、最終階級は大佐であった[1]。1997年に一時休職したのち、1998年から1999年にかけては中華人民共和国に派遣された[1]

1999年11月、出張先の北京から大韓民国に亡命した[1][2]

北朝鮮にいたとき、権革は複数の日本人拉致被害者を目撃したが、脱北した当初はあまり関心がなく、2002年9月、日本の小泉純一郎内閣総理大臣が訪朝し、日朝平壌宣言の場で北朝鮮の最高指導者金正日労働党総書記が拉致の事実を公式に認め、日本側に謝罪した後も、拉致問題がそれほど重大な問題とは考えなかったという[1]。拉致された人について、知っている事実を話す相手も機会もない状態にあったが、別のある脱北者夫人に手記出版の話が持ち上がり、担当出版者がある時、日本人ジャーナリストをともなって脱北者宅を訪れた時に偶然出会ったのがきっかけとなって証言することになったという[1]

日本人ジャーナリストに目撃情報を口外することについては、ソウル大韓民国国家情報院から制限を受けていたが、日本のマスメディアから強い関心が寄せられ、証言についても強い要望があることを国情院担当者に伝えると、拉致された人のこと以外は教えないよう、教えるにしても控えめにするようにとの指示を受けたという[1]2003年、彼は日本を訪れ、北朝鮮で目撃した拉致被害者について証言した[1]。権革はメディアの取材に対し、当初は自身の写真撮影のみならず、実名を明らかにすることすら拒んだという[2]。彼の証言が、太陽政策のもと北朝鮮との対話を重視する韓国政府を刺激することを恐れたためであった[2]

日本人目撃証言

時期人物目撃地施設
1977年大屋敷正行平安北道泰川郡泰川軍官学校
1978年5月斉藤裕黄海北道谷山郡57軍校9大隊
1980年2月男性K.M咸鏡北道対南連絡所5日休養所
1993年6月遠山文子咸鏡北道清津連絡所
1993〜1994年佐々木悦子平壌直轄市5454部隊本庁舎
1993〜1994年山本美保平壌直轄市5454部隊本庁舎
1994年6月15日国広富子平壌直轄市朝鮮労働党幹部宅

権革は、1977年平安北道泰川郡の泰川軍官学校で日本人拉致被害者で東京都江戸川区出身の大屋敷正行1969年7月27日静岡県沼津市の海岸で失踪。失踪当時は16歳の高校2年生[5])と知り合い、3か月ほど起居をともにし、兄弟同然に親しくした間柄であった[1][2]。権革が熱を出して臥せっていたとき、大屋敷に親切にしてもらったことがあり、そうしたこともあって権革にとっては生涯忘れがたい人であるという[1]。大屋敷は1984年頃まで泰川軍官学校にいたと思われ、その後、咸鏡南道咸興市の化学兵器研究所に異動になったという私信が届いたという[2]。大屋敷は朝鮮名をキム・ミョンホといい、のちに朝鮮労働党幹部の娘と結婚したが、権はその結婚式に招かれている[1][2][6]。式には参加できなかったが、その代わり、祝いの品を送ったという[1][2]

1978年5月、権革は57軍校9大隊で北海道稚内市出身の斉藤裕1968年12月1日失踪。失踪当時は18歳の高校3年生[7])を目撃している[1][2]。57軍校9大隊は黄海北道谷山郡にあり、そこで斉藤は「ヨンスン先生」と呼ばれ、日本に関する講義で教鞭を取っていたが、厳格な教師として知られていたという[1][2]。日本の自衛隊について詳しく、講義のなかでもしばしば自衛隊の話題が登場した[1][2]運転手付きの自動車で通勤し、庭付きの家に住み、庭の手入れも兵士が行っていたので、相当に身分が高く、当局から優遇されていたようにみえたという[1]

1980年2月か3月、権革は、K.M(1970年6月、近畿地方で失踪。失踪当時34歳[8])によく似た人物を咸鏡北道の対南連絡所の5日休養所で2度目撃している[1][2][注釈 4]。彼は特殊部隊作戦組に所属しており、大尉の階級にあり、身長は170センチメートルほどで40代半ばに見えたという[1][2]

権革は、1993年6月頃、東京都墨田区に住んでいた遠山文子1973年7月、石川県羽咋市で失踪。失踪当時21歳[9])を咸鏡北道清津連絡所で見かけている[1][2]。3日続いた宴会の席で権革は彼女と3度会い、食事や洒を一緒に楽しんだ[1][2]。彼女は朝鮮名「キム・ソングム」を名乗り、身長は157センチメートルほどで、ふくよかな体型で活発な性格の持ち主であったという[2]。彼女は近い将来、海外に出る予定だと権革に話していた[2]。権革は、海外とは北米大陸のどこかではないかと語っている[1]

1993年か1994年頃、権革は、埼玉県浦和市(現、さいたま市)出身の佐々木悦子(1991年失踪。既婚。失踪当時27歳[10])を平壌直轄市東大院区域三馬一洞の5454部隊本庁舎2階の通信局において目撃している[1][2]。佐々木悦子はその一室で働いており、当時独身だった権革は、5454部隊の語学参謀長から「頭の良い女性がいるから会ってみないか」と言われて部屋に入った[1][2]。これは特別の許可によるものであった[1][2]。また、通信の解析などを行う電波探知所で探知機の前でタイプライターか何かを打つようす[2]、通信局のテレビモニターの前で彼女を含む4人の女性(うち1人は朝鮮人)が1つのチームでモニターチェックをしながら解析(翻訳作業)をしていたようすも見ている[11][注釈 5]。権革は一目で彼女に好意をもったという[1]。彼女とは直接20分ほど会話もしている[12]

5454部隊では、権革は山梨県甲府市出身の山本美保1984年6月4日新潟県柏崎市で失踪。失踪当時20歳[13])も目撃している[1][2]。目撃は複数回におよんでおり[1][2]、運動場でバレーボールに興じる彼女も見ている[11][12]。運動場では、佐々木悦子と山本美保が一緒に歩いているところも見たという[12]。山本美保の双子の妹の美砂に会った権革は「美保にそっくり」「美砂の方が華奢」とコメントしており、その内容が正しいことは母親も認めている[12]。彼女については、山梨県警察によるDNAデータ偽造の疑いが持たれている[12][14][15]。山本美保が失踪して約半年後の1984年11月6日からは無言電話1989年平成元年)夏頃まで約4年半続き、1987年10月18日の電話では「美保なんでしょ。元気?」と声をかけた家族に対し、電話の主はずっと泣いていて微かに「元気」とだけ答えたという[13]。もしも彼女が5454部隊の通信局にいたとしたら、人目を盗んで平壌から日本に国際電話をかけることが、あるいは可能であったかもしれないと考えられる[2]

1994年6月15日、権革は山口県宇部市出身の国広富子1976年8月2日失踪。失踪当時24歳[16])と思われる女性を目撃している[1][2]。場所は、平壌市中区域東興洞にある朝鮮労働党幹部の自宅であった[1][2]。権革の叔父が汚職事件のあった平安北道新義州市に出向き、事件を処理した後の祝いの小宴で、対南連絡所の後方総局長が夫人を連れてビールを差し入れたが、その夫人が国広富子であった[1][2]。後方総局長が日本人女性と結婚していたのは周知のことであった[1]。権革によれば、それほど背が高いという印象はなく、当時、平壌で流行っていた型の高級ワンピースを着ており、玄関にあったローヒールもきわめて高価なものであった[2]。彼女は、権革の妻に「日本でも苦労していた」と語っていたという[2]

以上が、権革が北朝鮮国内で目撃した拉致被害者日本人7名に関する情報である。雑誌『フライデー』のインタビューを終えた権革は、「北朝鮮にいる時は日本人拉致を当然のことだと考えていました。なぜなら、戦争とは殺るか殺られるかの世界だからです。でもいま、拉致は悪いことだったと、胸が痛みます」と語っている[2]

政府認定拉致被害者の松本京子

なお、メディアに公表された7人以外では、

以上4名に似た人物を、北朝鮮で目撃したと証言している[21] [注釈 6]

亡命者証言の精査と積極的な情報収集・開示について

権革の証言は、それまで拉致被害者に関しては安明進の証言が頼りという状態であったことからすれば大変意義の大きいものであったと評価される[2]。その一方で、たとえば斉藤裕に関しては、親戚に自衛官がおり、失踪当時以前から稚内に自衛隊があったのは事実ではあっても、権が「身長170センチメートルほど」と証言しているのに対し、家族は「160センチメートルほど」だったと記憶しており、容姿の似ている別人だった可能性も考えられるなど、いくらか疑問をともなうものであった[2][23]。また、K.Mについては、後になって日本国内での所在が確認された。

2003年(平成15年)4月25日特定失踪者問題調査会荒木和博代表は、内閣府拉致被害者・家族支援室、警察庁公安調査庁外務省の政府4機関に対し、文書「亡命者情報に関する積極的調査の要請」を送り、被害者家族が亡命者情報に翻弄される一方で政府からの情報がないことに焦りを感じている状況であることを指摘し、関係機関の誠実な対応を求めるとともに、政府は「いかにすれば拉致被害者を特定し、救出できるか」という視点からの積極的な情報収集、および、その情報の可能な限りの国民・関係者家族への開示を強く要請した[23]

脚注

参考文献

関連項目

Related Articles

Wikiwand AI