天野元友
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生涯
大内氏に属する安芸国の国人である天野隆重の四男として生まれる[2]。
天文21年(1552年)1月10日、毛利隆元の加冠を受けて元服し、「元」の偏諱を与えられて元友と名乗った[4]。
天文23年(1554年)10月13日、安芸国賀茂郡志芳において、阿野十郎に与えられている8貫文分を除いた分を知行地として毛利元就・隆元父子から与えられた[5]。
弘治3年(1557年)4月に大内氏を滅ぼして防長経略が完了した後、同年12月2日に毛利氏家臣239名が名を連ねて軍勢狼藉や陣払の禁止を誓約した連署起請文において、8番目に「天野少輔四郎」と署名している[6]。
年不詳だが毛利氏における騎馬衆や走衆の構成を記した文書には騎馬衆の最後(13番目)に元友の名(天野少輔四郎)が記されている[注釈 1][7]。
永禄8年(1565年)2月22日、毛利輝元から「雅楽允」の官途名を与えられる[8]。
永禄12年(1569年)12月20日、毛利元就と毛利輝元から出雲国出雲郡氷室100貫と石見国安濃郡の波根・竹邊の100貫の地を給地として与えることを約束した[9][10]。
元亀元年(1570年)5月、尼子方として末次城を守っていた大野高直が出雲国島根郡岡本の地を与えることを条件として毛利方に降ったが、岡本は宍戸隆家に与えられることになっていた[9]。この時、元友に氷室が与えられることを御四人の吉川元春、小早川隆景、福原貞俊、口羽通良が知らなかったため、吉川元春は岡本の代わりに氷室を与える条件で隆家を説得し、大野高直に岡本、宍戸隆家に氷室が与えられることになった[9]。当然、氷室を失うことになる元友は納得せず、愁訴に及ぶこととなり、吉川元春、小早川隆景、福原貞俊、口羽通良が問題解決のために奔走することになる[11]。
同年6月9日、小早川隆景と福原貞俊は毛利氏の五奉行である国司元武と児玉元良に書状を送り、元々決まっていたように元友に氷室、宍戸隆家に岡本を与え、大野高直に替地が与えられるように輝元に進言している[12]。
同年7月26日、吉川元春は元友の父である天野隆重にも事情説明の書状を送り、併せて元友にも状況を伝えるように依頼している[13]。
同年8月1日、毛利輝元は、吉川元春、小早川隆景、福原貞俊、口羽通良で元友の愁訴について談合した結果を諮問している[14]。
同年10月19日、小早川隆景は元友の長兄である天野元明からの問い合わせに対する返書で、元友の愁訴が叶うように吉川元春と相談して福原貞俊と口羽通良に伝達する旨を返答している[15][16]。しかし、同年10月27日には小早川隆景が元友に書状を送り、氷室が毛利元就と輝元から与えることを約束された地であるが、今となっては支障が出ているため、出雲国あるいは周防国と長門国において替地を与えるので、それで納得してほしいと説得している[15][17]。
元亀3年(1572年)12月1日に定められた毛利氏掟に対し、元友は12月13日に「天野雅樂允」と署名した[18][19]。なお、元友と同日に兼重元宣、福原左馬允、児玉就時、福原少輔四郎、佐藤元光、長井元為、東左京亮、庄原就親、長沼元正、児玉元重、渡辺元、渡辺就国、児玉兵庫允、児玉就光、井上就正、粟屋元方、児玉就久、児玉十郎右衛門尉、井上就重、粟屋元重が署名している[18]。
天正年間の初め頃に死去[3]。嫡男の天野元勝が後を継いだ[3]。
なお、結局元友の存命中には氷室の地に関する愁訴が解決しなかったため、嫡男の元勝が愁訴を引き継いだが、天正11年(1583年)閏1月23日に輝元が吉川元春、小早川隆景、福原貞俊に対して、氷室の替地として島根郡円福寺100貫の地を元勝に与えるように命じ[15][20]、同年5月20日に新たな在城の任務と引き換えながら、ようやく島根郡円福寺100貫の地が元勝に与えられた[15][21]。
脚注
注釈
出典
- ↑ 萩藩諸家系譜 1983, p. 469.
- 1 2 3 4 5 6 萩藩諸家系譜 1983, p. 470.
- 1 2 3 『閥閲録』巻92「天野九郎左衛門」家譜。
- ↑ 『閥閲録』巻92「天野九郎左衛門」第18号、天文21年(1552年)1月10日付け、天野少輔四郎(元友)殿宛て、(毛利)隆元加冠状。
- ↑ 『閥閲録』巻92「天野九郎左衛門」第1号、天文23年(1554年)10月13日付け、天野少輔四郎(元友)殿宛て、(毛利)隆元・(毛利)元就連署状。
- ↑ 『毛利家文書』第402号、弘治3年(1557年)12月2日付け、福原貞俊以下家臣連署起請文。
- 1 2 『毛利家文書』第628号、騎馬衆以下注文。
- ↑ 『閥閲録』巻92「天野九郎左衛門」第19号、永禄8年(1565年)2月22日付け、天野少輔四郎(元友)殿宛て、(毛利)輝元官途状。
- 1 2 3 中司健一 2004, p. 52.
- ↑ 『閥閲録』巻92「天野九郎左衛門」第2号、永禄12年(1569年)12月20日付け、天野雅樂允(元友)殿宛て、(毛利)輝元・(毛利)元就連署状。
- ↑ 中司健一 2004, pp. 52–53.
- ↑ 『閥閲録』巻92「天野九郎左衛門」第5号、元亀元年(1570年)6月9日付け、國司右京亮(元武)殿・兒玉三郎右衛門尉(元良)殿 御宿所宛て、(小早川)隆景・(福原)貞俊連署状。
- ↑ 『閥閲録』巻92「天野九郎左衛門」第6号、元亀元年(1570年)7月26日付け、(天野)隆重 御旅所宛て、(吉川)元春書状。
- ↑ 『閥閲録』巻92「天野九郎左衛門」第8号、元亀元年(1570年)8月1日付け、(小早川)隆景・左近允(福原貞俊)殿・下野守(口羽通良)殿・(吉川)元春宛て、(毛利)輝元書状。
- 1 2 3 4 中司健一 2004, p. 53.
- ↑ 『閥閲録』巻92「天野九郎左衛門」第4号、元亀元年(1570年)10月19日付け、(天野)元明宛て、(小早川)隆景返書。
- ↑ 『閥閲録』巻92「天野九郎左衛門」第7号、元亀元年(1570年)10月27日付け、天野雅樂允(元友)殿 御陣所宛て、(小早川)隆景書状。
- 1 2 『毛利家文書』第404号、毛利氏掟。
- ↑ 毛利輝元卿伝 1982, p. 39.
- ↑ 『閥閲録』巻92「天野九郎左衛門」第9号、天正11年(1583年)比定閏1月23日付け、(吉川)元春・(福原)貞俊・(小早川)隆景宛て、(毛利)輝元書状。
- ↑ 『閥閲録』巻92「天野九郎左衛門」第10号、天正11年(1583年)5月20日付け、天野少輔四郎(元勝)殿宛て、(毛利)輝元宛行状。
参考文献
- 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本古文書 家わけ第八 毛利家文書之二』東京帝国大学、1922年2月。
国立国会図書館デジタルコレクション - 岡部忠夫編著『萩藩諸家系譜』琵琶書房、1983年8月。ASIN B000J785PQ。 NCID BN01905560。全国書誌番号:84027305。
国立国会図書館デジタルコレクション - 三卿伝編纂所編、渡辺世祐監修、野村晋域著『毛利輝元卿伝』マツノ書店、1982年1月。全国書誌番号:82051060。
国立国会図書館デジタルコレクション - 中司健一「毛利氏「御四人」の役割とその意義」広島史学研究会『史学研究』第245号、2004年8月、50-77頁。
- 山口県文書館編『萩藩閥閲録』巻92「天野九郎左衛門」