安邑の戦い
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背景
秦末の反乱
魏の公子である魏咎は寧陵君に封じられていたが、紀元前225年に秦が魏を滅ぼすと、庶人に落とされた(魏の滅亡)。
秦末の動乱期、張楚の君主・陳勝は周市を魏王に立てようとしたが、周市は辞退して受けず、代わりに魏咎を魏王に推戴した。こうして魏が復興されたが、間もなく陳勝が敗れると秦軍は攻勢を強め、章邯は軍を率いて臨済の魏咎を包囲した。魏咎は戦闘による損害が甚大であったため、秦軍に降伏して和議を結んだ後、自害した。魏咎の弟・魏豹は包囲網を突破して脱出し、楚へ逃れた。楚の懐王(後の義帝)は数千の兵を魏豹に与え、再び魏の地を平定させた。魏豹は魏の20余りの城を奪還し、楚によって魏王に立てられた。項羽が大軍を率いて関中へ進軍する時には魏豹は精鋭を選抜して新軍を編成し、自ら統率して項羽に従い関中に入った。
項羽が18人の諸侯王を各地に分封する際、項羽自身が魏の宋・梁などの地を得たいと考え、魏本来の領地は西楚の疆域に組み込まれた。そのため、魏は河東に移封されて平陽を国都とし、以降「西魏」と呼ばれるようになった。魏豹は西魏王に封じられ、その統治範囲はおよそ三家分晋初期の韓・魏両国の属領ほどであった。
漢への帰属と離反
漢が三秦平定の戦いで勝利して関中を収めた後、漢王劉邦は東方への積極的な進出を図り、主力軍を臨晋から渡河させて東進し、西魏領内に攻め込んだ。魏豹は戦争の備えをしておらず、漢の大軍が魏の国境に迫ると魏豹は降伏した。魏豹は漢に従い、項羽に敵対する立場となった。しかし、魏豹は劉邦から重用されず、さらに諸侯や群臣を奴隷のように扱うなど礼節にも欠ける劉邦の人間性にも大いに不満を募らせていた。
高祖2年(紀元前205年)4月、劉邦が彭城の戦いで項羽に大敗を喫した。魏豹は項羽率いる楚軍の勢威に恐れをなし、親族の病を口実に帰国するやいなや黄河の渡し場を遮断し、漢に背いて項羽に与した。魏豹の離反後、漢は占領する滎陽・洛陽の側背を脅かされるだけでなく、関中の安定にも深刻な圧力を受けることになった。
同年8月、楚漢両軍が滎陽・成皋一帯で対峙する中、劉邦は説客の酈食其を遣わして魏豹を説得させたが、失敗に終わった。劉邦は項羽に対して戦略的包囲網を敷くため、大将軍韓信を左丞相に任命し、歩兵将軍の曹参・騎兵将軍の灌嬰と共に魏への進攻を命じた。
当時、西魏軍の大将は柏直、歩卒将は項它、騎将は馮敬であった。劉邦はいずれも韓信・曹参・灌嬰には敵わないと自信を持った。
戦争
韓信は西魏軍が漢軍の進攻に備え、黄河の各渡河点を堅守して渡河を阻止し、同時に外に援軍を求めて漢軍の進攻を防ごうとすると分析した。そこで韓信は速戦即決の戦略を採り、魏の中枢である安邑を急襲することを決断した。
韓信は戦略的奇襲を行うため、一部の兵力を臨晋に送って船舶を徴集させ、大軍が渡河する構えを見せて陽動を図った。一方で曹参と灌嬰率いる主力軍を夏陽付近に密かに送り、迂回して安邑を襲撃する手筈を整えた。
韓信の疑兵の計にはまった魏豹は蒲坂に大軍を集め、臨晋を封鎖した。韓信は船を並べて臨晋から強行的に渡河しようとする様子を見せつつ、木材の枠に甕を縛り付けることで浮力を得た即製のいかだ(木罌缶)を大量に作り、それを用いて上流の夏陽の軍を密かに渡した。渡河後、曹参は東張で魏の将軍・孫遫の軍を大いに打ち破って安邑を襲撃し、その将軍・王襄を捕らえ、安邑を占領した。魏豹は奇襲の報に驚き、急いで軍を安邑に向かわせ、漢軍は蒲坂から北上してきた西魏軍を迎え撃った。西魏軍は次第に劣勢となり、さらに大軍が移動したことで臨晋から渡河した漢軍が到着して戦闘に加わり、魏豹は撤退した。9月、漢軍は東の曲陽に逃れた魏豹を攻撃し、武垣まで追撃してこれを捕虜とした。その後、国都の平陽を奪取し、魏豹の母と妻子を捕らえた。魏の地の52城は全て平定され、漢はその地に河東郡・太原郡・上党郡を置いた。