三秦戦役
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背景
前段階
項羽の処遇に劉邦は怒り、配下たちも反逆を勧めたが、多くの書籍から知識を深めていた蕭何は「我々の兵は項羽に及ばず、戦えば百戦百敗です。漢中に王として留まり、巴蜀の地を治め、力を蓄えてから三秦の地を奪還すべきです」と進言し、これに劉邦は従った。
漢中に入った劉邦であったが、諸将は故郷を懐かしみ、逃亡する者が後を絶たなかった。韓信(当時は治粟都尉)もその一人で逃亡したが、蕭何は韓信を連れ戻し、劉邦に「韓信は国士無双です。天下を争うのであれば、韓信をおいて適任はいません」と強く推薦した。劉邦は蕭何を意見を聞き入れ、韓信を大将軍に任命した。
劉邦は韓信の才略に大いに感心し、その三秦平定の計策に従い、諸将に任務を割り振った。蕭何は漢中に留まり、兵糧や物資の補給を担当し、戦争の準備を整えた。この頃、張良の策略によって項羽の注意は斉の田栄に向けられていた。
戦争
司馬遷『史記』の各篇の該当部分を記述する。精確に経過を解説するのは時系列が推測となるため、列記に留める。なお、雍の都城は廃丘、塞の都城は櫟陽、翟の都城は高奴である。
高祖本紀
紀元前206年8月、劉邦は軍を率いて都城の南鄭を出発し、故道[1]を通って章邯を急襲した。章邯は陳倉で迎え撃ったが敗れ、退却した。その後、章邯は好畤で戦いを仕掛けるもまたも敗北し、廃丘に撤退した。劉邦は雍の地を平定し、東進して咸陽にまで至った。軍を率いて廃丘を包囲している間、諸将を各地に遣わして隴西・北地・上郡を平定させた。
紀元前205年、司馬欣、董翳が降伏した。同年正月に章邯の弟・章平を捕虜とした。6月に廃丘は降伏し、章邯は自害した。
曹相国世家
曹参は下辯・故道を攻め落とし、さらに雍・斄を攻めた。好畤の南で章平の軍を破り、好畤を包囲して壤郷を奪取した。さらに壤東と高櫟で三秦の軍を撃破した。再び章平を包囲したが、章平は好畤の包囲から脱出して逃走した。その後、趙賁と内史保の軍を破り、東進して咸陽を占領した。その後、兵を率いて景陵を20日間守備した。そこへ章平らが攻撃を仕掛けてきたが、曹参は出撃してこれを大いに破った後、章邯が籠城する廃丘を包囲した。
絳侯周勃世家
周勃は槐里[2]と好畤を攻撃し、最大の軍功を立てた。咸陽で趙賁と内史保の軍を攻撃し、再び最大の軍功を立てた。その後、北方の漆を攻撃し、章平・姚卬の軍を撃破した。西方の汧を平定し、帰途に郿・頻陽を攻め落とした。章邯が籠城する廃丘を包囲し、西の県丞の軍を破り、盜巴の軍を撃破して上邽に進攻した。
樊酈滕灌列伝
樊噲は別動隊を率いて白水の北で西の県丞の軍を攻撃し、さらに雍の南で章邯の軽車騎兵を破った。劉邦に従って雍・斄の城を攻撃し、先陣に立って好畤で章平の軍を攻撃した。敵陣に突入し、1人の県令と県丞を斬首し、首級11人、捕虜20人を挙げ、郎中騎将に昇進した。続いて章邯の車騎兵を壤東で撃退し、将軍に昇進した。趙賁の軍を攻撃し、郿、槐里[2]、柳中、咸陽を陥落させる、章邯が籠城する廃丘を水攻めして降伏させるなどの功績を挙げ、最大の軍功とされた[3]。
酈商は別動隊を率いて北地と上郡を平定し、章邯配下の将軍を焉氏で、周類の軍を旬邑で、蘇駔の軍を泥陽で破った。
灌嬰は櫟陽を攻め落とし、司馬欣を降伏させた。軍を引き返して廃丘で章邯を包囲したが、陥落させることはできなかった。
傅靳蒯成列伝
靳歙は別動隊を率いて西進し、隴西で章平の軍を撃破し、隴西の6県を平定した。その指揮下の兵士が、車司馬と候をそれぞれ4人ずつ、騎長を12人討ち取った。
高祖功臣侯者年表
章邯の軍が渭水沿いの道を守備していたため、劉邦は進軍を断念して撤退を考えていたところ、趙衍が「別の進軍路がある」と進言した。この進言通りに進軍したところ、その道は通行可能であり奇襲するのに役立ったため、これを趙衍の功績とされた。
他、同書でこの戦役で功績を立てたと挙げられている人物は、傅寬、丁復、呂沢、郭蒙、董渫、朱軫、蠱逢、呂博国、搖毋余、耏跖、周定、戎賜、単寧、丙倩、丁義、華無害、周緤、丁禮、劉到、紀成。