平岡敏男

From Wikipedia, the free encyclopedia

死没 (1986-08-06) 1986年8月6日(76歳没)
東京都杉並区
死因 肝不全
出身校 東京帝国大学経済学部
ひらおか としお
平岡 敏男
生誕 (1909-09-18) 1909年9月18日
日本の旗 日本北海道旭川市
死没 (1986-08-06) 1986年8月6日(76歳没)
東京都杉並区
死因 肝不全
出身校 東京帝国大学経済学部
職業 ジャーナリスト実業家
栄誉 ベルギー王冠コマンドール勲章(1977年)
ハンガリー文化功労章(1979年)
マスコミ功労者顕彰(1991年)[1]
テンプレートを表示

平岡 敏男(ひらおか としお、1909年(明治42年)9月18日 - 1986年(昭和61年)8月6日[1])は、日本のジャーナリスト実業家

毎日新聞社社長(1976年2月 - 1980年12月)。

北海道旭川市出身(留萌市生まれ[2])。弘前高等学校では新聞部に所属し、一期下の太宰治とも親交があった。1932年に東京帝国大学経済学部を卒業し、東京日日新聞社(後の毎日新聞東京本社)に入社[1]。経済部記者、東京本社経済部長、論説委員ロンドン支局長などを経て、1963年取締役。1966年西部本社代表、1968年常務

1976年2月、巨額の負債を抱え、経営危機に瀕していた毎日新聞社の社長に就任[1]永野重雄に救済を仰ぎ[3][4]、翌年「新旧分離方式」の経営再建の方針を固め、登記上の本社で発行部門を担当していた大阪本社を、負債の整理・清算に専念させ(「株式会社毎日(旧社)」)、東京本社(編集部門)と経営を一本化させる形で、新たに東京に新会社「毎日新聞株式会社(新社)」を設立した。数百億と言われた負債を解消し、1985年には新旧両社合併を果たすことが出来たのは、平岡の類いまれな経営手腕による所が大きいといわれる。平岡は「毎日新聞再建に示された永野さんの恩義は、今でもひしひしと胸に迫るものがある」と述べている[3]

1980年会長。同年横綱審議委員会委員。ほかにラジオ福島会長、パレスサイドビルディング社長などを務めた[1]

1986年8月6日、肝不全ため、自宅で死去。76歳没[5]

著書に『焔の時灰の時』などがある。

著書

  • 『新經濟十二講』高山書院、1940年12月。 
  • 『めぐりあい』平岡敏男、1970年。 
  • 『焔の時灰の時』毎日新聞社、1979年9月。 
  • 『毎日新聞私の五十年』毎日新聞社、1982年12月。 

追想録

脚注

参考文献

Related Articles

Wikiwand AI