徐敬直
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徐敬直 Su Gin Djih | |
|---|---|
| 生誕 |
1906年10月6日[1][2] |
| 死没 |
[1] |
| 教育 | |
| 職業 | 建築師 |
| 子供 |
息子:徐和徳[3](William) 息子:徐和平[4] 娘:徐瑾 娘:徐玲 娘:徐珏 |
| 親戚 |
祖父:徐潤 父親:徐之元 |
徐 敬直(じょ けいちょく、英語: Su Gin Djih[5]、1906年10月6日—1983年2月1日)は、中国の建築家。西洋に留学し、中国大陸および香港で活躍した第一世代の華人建築家であり、1956/57年度には香港建築師公会(1972年に香港建築師学会へ改称)の初代会長を務めたほか[6]、1950年代には香港中華総商会第12期会董や香港ロータリークラブ会長を歴任した[7]。
徐敬直は現在の上海市に生まれた[8]。初期の設計スタイルは古典建築を模した様式に現代建築の技術や材料を組み合わせることを特徴としたが[9]、その後は実用性と民本志向で知られるようになり、香港での代表作には、すでに取り壊された旺角の麦花臣球場などのモダニズム建築などがある[10]。長男の徐和徳も香港建築師学会の1977/78年度の会長を務めた。



徐敬直の祖籍は広東省・中山であり、1906年10月6日に上海で買辦業を営む家庭に生まれた[11]。祖父徐潤は清代洋務運動の代表人物である唐廷枢とともに保険招商局の事務に携わっていた[11]。父親である徐之元が早逝したため、敬直は母の手で育てられた[11]。天津で中学に通い[11]、1924年には滬江大学へ進学[12]。1926年以降は海外に渡り、アメリカ・ミシガン大学工学部で建築学を専攻し、工学士を修めた。1929年には建築研究所の学士号を取得し[13]、1930年には修士号を得た[11]。その後、クランブルック美術学院(Cranbrook Academy of Art )でも建築学を学び[11]、同学院で知り合ったフィンランド出身の建築家エリエル・サーリネン(Eliel Saarinen)の下で、彼のデトロイトの事務所で勤務した[11]。
徐は1932年に帰国後上海で開業し[14]、翌年には「興業建築師事務所」を開設した[15]。その共同経営者には建築家の李恵伯や、彼の後輩である楊潤鈞が加わっていた[14]。この事務所は2014年現在でも存続しているが[16]、徐の子息である徐和徳は不動産業への転身を図り、事務所を何約瑟らに譲渡したため、その経営から外れている[17][18][19]。創立当初、事務所の業務範囲は上海・南京・崑山・杭州一帯に及び、主に住宅、研究施設、職員宿舎といったプロジェクトを主に手がけていた[11]。
1945年、第二次世界大戦が終結すると、徐は翌1946年に一時的に上海へ戻ったが[11]、その後香港へ移り住んだ。香港に滞在した期間、徐は1953/54年度には東華三院総理を務めたほか[20]、香港ロータリークラブの会長も務めた。すでに1933年に上海建築師学会の設立に関わっていた徐は、1956年には香港建築師公会(1972年に香港建築師学会へ改称)の創立にも参画し[21]、1956/57年度には初代会長を務めた。徐の退任後は、同じく創立メンバーであり、後に香港政庁工務司となったマイケル・ライトが会長職を引き継いだ[6][22]。
1964年、徐敬直は『中国建築:過去と現在(英語: Chinese architecture : past and contemporary)』を著し、建築界の将来の方向性に関して自身の見解を示すとともに、香港における建築物の設計様式についても分析を行った。その中で徐は、自身の造語である「チャイニーズ・ルネサンス(英語: Chinese Renaissance、中国語: 中式文藝復興風格)」の概念を用い、香港のいくつかの宗教建築を形容した。これらは中西折衷を特色とするものであり[23]、たとえば黄竹坑の聖神修院(1931年竣工)、赤柱の瑪利諾神父会院(1935年竣工)、銅鑼湾の聖馬利亞堂(1937年竣工)、土瓜湾の聖三一堂(1938年竣工)、沙田の道風山基督教叢林(1939年竣工)などがある[24]。
徐は1969年に中風により言語能力を失って以降は建築界を退き、晚年はアメリカ合衆国メリーランド州に移住した[25]。1983年2月1日に当地で死去[25]、享年は76歲であった[25]。死後、家族によって2月6日に香港島跑馬地雲地利道にあるセブンスデー・アドベンチスト教会先導紀念堂にて安息礼拝が執り行われた[25]。
作品
徐敬直は中国本土で活動していた時期に多くの作品を残している。1935年、彼は国立中央博物院に対し清代建築を模した設計案を提出した[26]。しかし当初は否定され、その後1934年に国立中央博物院内に設立された「中央博物院建築委員会」が規程に基づき人文館の設計案を選考した[26]。ところが審査の結果、いずれの案も1929年12月に公布された、首都南京の建築様式は「中国固有の形式とし、公署や公共建築物は極力これを採用すべき」とする『首都計画』の原則に完全には合致していないことが判明した[26]。そこで委員会では無記名投票により、修正する価値が最も高い案を選び[26]、最終的に著名な建築家・梁思成が徐案を修正し河北省薊県独楽寺山門の遼代様式を模したものへと改めることが決定された[27]。これにより、徐自身も国立中央博物院籌備処の建築師に任命された[28]。
国立中央博物院人文館の設計に続き、徐は1936年に国立中央大学の新キャンパスを設計した[29]。その後1940年代末に香港へ移り、多くの建築物を手がけた。例えば、1949年には九龍三育中学に隣接する九龍界限街52号にセブンスデー・アドベンチスト教会九龍教会の礼拝堂を設計した[30]。さらに3年後には旺角・麦花臣球場を設計した[31]。ヴォールト屋根は当時の建築界では斬新で珍しいデザインだったことから[32]、球場は旺角のランドマークとなった[33]。
この他、徐は1955年には国際モダニズム様式で石澳バスターミナルの建築物(当時は中華汽車 (香港)のバスターミナルおよび守衛宿舍、車庫であった)を設計した[34]。香港での作品はこうした公共建築に限らず、商業施設、娯楽施設、教育施設など幅広い分野に及んでいる。1963年には「殯儀大王(葬儀王)」と呼ばれた蕭明が香港島北角の埋立地を落札し、香港殯儀館新館を建設することとなったが、徐はその設計を任され、地上7階建てで、駐車場や冷房設備を備え、4つの大礼堂、2つの化粧室、14の霊安室を擁する殯儀館を設計することとなった[35][36]。
他にも、徐は北角の国民収銀機大廈と麗池酒店夜総会、銀鉱湾の児童営、聖公會基愛小学、瑪利諾神父教会学校、尖沙咀覚士道の童軍総会、農圃道の新亞書院といったプロジェクトを手がけた[37]。
また、早くも1951年の時点で香港大会堂の建設プランについて意見を表明し[38]、大会堂は市民に集会の場を提供し、文化交流、儀式の開催、地域活動の拠点となるべきであると主張した[39]。
著作
- Chinese Architecture : past and contemporary, Hong Kong: Sin Poh Amalgamated, 1964[40].