日本とトルコの関係
日本とトルコの二国間関係
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歴史
前史
15世紀に入ってオスマン帝国の勢力が伸長すると、それまで陸路でアジアから香辛料を入手していたヨーロッパは通商ルートを帝国にさえぎられることとなり、新たな通商ルートの開拓の必要性に迫られた。この後ポルトガルやスペインは喜望峰廻りの海洋通商ルートを開拓し、アジアにも勢力を拡大していくこととなった。すなわち1543年の鉄砲伝来によってはじまる日本と欧米との接触は、オスマン帝国の勢力伸長の間接的な影響を受けて起こった出来事であると言える。
エルトゥールル号遭難事件

(和歌山県串本町)
1887年、小松宮彰仁親王がヨーロッパ訪問の途中でイスタンブールに立ち寄った[1]。それに応える形で1890年、オスマン帝国スルタンであったアブデュル・ハミト2世の使節としてフリゲート艦「エルトゥールル」が日本へ派遣された[2]。使節は明治天皇へ親書などを手渡し帰国の途についたが[3]、和歌山県沖で台風に巻き込まれ座礁沈没[4]。特使オスマン・パシャを含め500名以上の乗組員が死亡した[5]。このとき紀伊大島の住民が救援に駆けつけ69名を救出した[6]。報告を受けた明治天皇は直ちに神戸港へ医師と看護婦を派遣、救援に全力をあげた[7]。さらに生存者には日本全国から多くの義捐金・弔慰金が寄せられた[注釈 1]。生存者は日本海軍の装甲コルベットの金剛と比叡により、オスマン帝国に丁重に送還された[9]。トルコ軍艦遭難事件とその顛末はトルコ国内で大きく報道され、日本人に対する友好的感情もこの時より醸成された。 現在、和歌山県串本町には遭難事件にまつわるトルコ記念館がある。2015年には日本トルコ友好125周年を記念して海難1890(Ertuğrul 1890)という合作映画が制作された。
日露戦争

1866年のロシア帝国
1904年から始まった日露戦争に、オスマン帝国国民は大きな関心を寄せた。これはクリミア戦争(1853年 - 1856年)・露土戦争(1877年 - 1878年)などによってロシアからの圧力を受けていたことによるもので、両国にとって南下政策を推し進めるロシアは共通の敵であった。1905年日本が日本海海戦でロシアバルチック艦隊に対し決定的な勝利をおさめると、オスマン帝国国内では自国の勝利のように喜ばれた[10]
日本の成功は我々の喜びである。ロシアに対する日本の勝利は我々の勝利と見てよい。
[要出典]。なおロシア黒海艦隊に対する封鎖を日本に協力するために行ったという解釈があるが、黒海艦隊が黒海から出ることを禁じた1841年のロンドン条約以降、常に行っていたことである。
オスマン帝国とギリシャ王国は伝統的に緊張関係にあり、ギリシャ海軍がイタリア王国から装甲巡洋艦イェロギオフ・アヴェロフの購入計画をたてると、オスマン帝国は対抗できる装甲巡洋艦もしくは巡洋戦艦を輸入しようと試みた[11][出典無効][12]。オスマン帝国は大使を通じて日本政府に筑波型巡洋戦艦か鞍馬型巡洋戦艦の購入を打診したが、日本側は諸事情を考慮して断った[13][出典無効]。オスマン帝国はドイツ帝国から前弩級戦艦2隻を購入した[注釈 2][出典無効]。
第一次世界大戦
日露戦争により極東での南下政策を阻止されたロシア帝国は中央アジアとバルカン半島に矛先を転じ、ボスポラス海峡とイスタンブールの掌握を目指した。イギリスとフランスは三国協商によりロシアの同盟国となり、オスマン帝国は3B政策を掲げるドイツ帝国に接近した。1914年になると様々な事件が重なり、同盟関係を結んでいたオスマン帝国とイギリスの関係は急速に悪化した[注釈 3]。さらにドイツの強い働きかけと陰謀[注釈 4]などにより、1914年10月末にオスマン帝国は第一次世界大戦において同盟国側として参戦、連合国側として参戦した日本とは交戦国同士となる。敗れたオスマン帝国は、1920年セーヴル条約によって広範な領土を失った。
終戦によってロシアの捕虜となったトルコ兵は1918年に日本側に移管され、その後、日本が捕虜をトルコ本国へ送り届けることとなった。1921年に捕虜を乗せた輸送船の平明丸がウラジオストクを出発したが、イスタンブールへの到着を目前にしてギリシャ軍に拿捕され、長期間抑留されることとなった(平明丸事件)。
戦間期
第一次世界大戦で敗戦国となったトルコは、さらなる列強による国土分割・植民地化の危機にあった(希土戦争、チャナク危機など)。しかし1922年からケマル・アタテュルクらの主導で祖国解放戦争が開始されトルコ共和国が成立(トルコ革命)、1923年のローザンヌ条約(日本を含む8か国が参加した)により国境が決定した。
1924年には日土の国交が樹立され、1926年には日土協会が発足。1928年12月には、トルコ海軍が日本海軍に小艦艇(駆逐艦、潜水艦、駆潜艇)の建造を依頼している[16][注釈 5]。1929年には、皇族の高松宮宣仁親王(昭和天皇弟宮、海軍将校)[17]を日土協会総裁に迎えた。トルコでは近代化政策が進められたが、民族資本の育成や国立銀行の設立、法制面の整備などの諸改革は、日本の明治維新を手本にしたものである。1930年、日土通商航海条約が結ばれ両国の関係はより強固になった。
戦間期、日本とトルコの関係は良好であった。トルコ海軍と、日本海軍の交流も続いた[18]。1934年には、トルコ海軍が日本に軍艦を発注し[19]、軽巡洋艦や駆逐艦建造の契約を結んだという報道もあった[注釈 6]。だが1935年になってトルコ政府はイギリスのヴィッカース社に乗り換えてしまったという[注釈 7]。1938年、トルコ政府はイギリスにI級駆逐艦(デミルヒサル級駆逐艦)4隻を発注した。[要出典]。
第二次世界大戦
第二次世界大戦でトルコが枢軸国側に参加することは無かった。開戦当初からトルコは中立を宣言し、中立を長らく維持していたがイギリスをはじめとした連合国の圧力により、 1945年1月に日本と断交[22]、宣戦布告した。しかし国内世論は宣戦布告に反対であり、日本に対しての軍事行動は一切行わなかった。
戦後
戦中に破棄された両国の国交は、サンフランシスコ平和条約によって回復した。この際トルコは日本に対して賠償金その他の請求を一切行わなかった。 1952年(昭和27年)10月29日、トルコの共和国宣言日に昭和天皇からトルコのゼラール・バヤル大統領に祝電を送る。両国の共和国宣言日及び天長節に際しての祝電交換は、1945年(昭和20年)以降、中止されていたが、この年から再開されて恒例となった[23]。 1958年(昭和33年)には、アドナン・メンデレス首相が国賓として来日を果たしている[24]。戦後は経済大国へと発展した日本によるトルコへの政府開発援助での支援が積極的に行われており、特にイスタンブール市内のインフラの整備などに日本の多額の資金と技術が投入されている。1985年イラン・イラク戦争では、イラン在留日本人の救出にトルコ航空機が出動、200名以上が救出されたほか、1999年のトルコ大地震の際には日本からトルコへ捜索隊・救助隊の派遣、緊急円借款供与、緊急物資・無償援助、仮設住宅供与などが行われた。ボスポラス海峡海底地下鉄のトンネルは日本の支援で行われた。地下鉄の車両は韓国に発注され、アンカラの地下鉄は中国の支援に負っている。また日本とトルコではお互い恩返しをするような関係になっている。
年表
- 1873年 - 岩倉使節団の一等書記官・福地源一郎と僧侶の島地黙雷オスマン帝国訪問[25]。島地『航西日策』執筆
- 1876年 - 在英公使館員・中井弘、渡辺洪基イスタンブール訪問。中井『魯西亜土耳其漫遊記程』執筆。
- 1878年 - 11月9日、日本の軍艦「清輝」イスタンブール親善訪問[1]。『軍艦金剛土耳古国航海報告』『軍艦比叡土耳古国航海報告』上梓
- 1880年 -カージャール朝・オスマン朝への日本使節団(団長は外務省御用掛・吉田正春)派遣。随行の古川宣誉『波斯紀行』執筆。
- 1886年 - 農商務大臣・谷干城イスタンブール訪問
- 1887年 - 小松宮彰仁親王のイスタンブール訪問

- 1890年 - エルトゥールル号遭難事件
- 1905年 - 日本海海戦
- 1908年 - アブデュルレシト・イブラヒム(トルコ在住タタール人)来日し滞在記執筆
- 1923年 - ローザンヌ条約。トルコ共和国誕生
- 1924年 - 両国国交樹立
- 1925年 - それぞれ大使館設置
- 1926年 - 日土協会設立
- 1930年 - 日土通商航海条約
- 1945年 - トルコ、日本に宣戦布告、国交断絶
- 1951年 - 国交回復
- 1985年 - イラン・イラク戦争でのトルコ航空機による日本人救出
- 1988年 - 日本の政府開発援助による第二ボスポラス橋開通
- 1993年 - 土日基金文化センター設立
- 1999年 - トルコ大地震
- 2003年 - 「日本におけるトルコ年」開催 [26][27]
- 2010年 - エルトゥールル号遭難事件より120周年、「トルコにおける日本年」開催
- 2011年 - 日本で東日本大震災発生、トルコは3月19日から4月8日まで、宮城県石巻市、多賀城市、七ヶ浜などに救援隊を派遣し救援活動を行う。
- 2013年 - 日本の政府開発援助によるボスポラス海峡横断地下鉄(マルマライ)開業
- 2015年 - 日本・トルコ友好関係125年を記念に串本町は「まぐトル」というマスコットを誕生。日外友好をモチーフにしたの唯一のマスコットとなる[28]。
- 2019年
- 2023年 - トルコ・シリア地震
- 2024年
- 2025年
貿易
二国間の貿易は、戦後は一貫して大幅なトルコの貿易赤字の状態である。
防衛・軍事
自衛隊とトルコ軍の交流は活発で、ハイレベル会談、部隊間交流(艦艇・航空機相互訪問、共同訓練)、防衛装備・技術協力、能力構築支援などを通じて強化されている[30]。
2024年6月16日、海上自衛隊とトルコ海軍の間で3回目となる「自由で開かれたインド太平洋(FOIP)」の実現に向けて連携を強化するための共同訓練が実施された[31]。
2025年8月19日、防衛大臣の中谷元が日本の防衛大臣としては初めてトルコを訪問し、同国国防相のヤシャル・ギュレルと会談した。



会談内容は以下の通りである[32]。
- 冒頭、中谷大臣から、日本と長く友好関係にあるトルコを日本の防衛大臣として初めて訪問し、日トルコ防衛相会談が実施できることを嬉しく思う旨発言し、ギュレル大臣からも初めて日本の防衛大臣を迎えることができて光栄である旨、発言があった。
- 両大臣は、2012年に署名した防衛協力・交流に関する意図表明文書に基づく、ハイレベル交流、部隊間交流、教育分野での交流など、これまでの防衛当局間協力の進展を歓迎した。その上で、今回の防衛相会談を契機として、両国間の防衛協力を更に拡充させることで一致し、具体的な協力分野について協議するため、防衛実務者間の協議を開催することについて合意した。
- また、両大臣は、潜在的な協力分野として、両国間における防衛装備・技術協力の可能性について意見交換を行い、装備当局間で日トルコ防衛産業間の交流の実現に向けて、議論を開始することで一致した。
- 両大臣は、両国を取り巻く安全保障環境等について意見交換を行い、国際社会における重要な諸課題について、両国が果たす役割の重要性を確認し、地域の平和と安定のため連携することを確認した。


また、中谷は同年8月20日、訪問先のトルコで記者団の取材に応じ、19日に行われた国防産業庁長官のハルク・ギョルギュンとの会談で「トルコの無人機産業への関心」を伝えたことを明らかにした[33]。
中谷はトルコの防衛産業大手で、無人機を製造するトルコ航空宇宙産業(TUSAS)も視察した。中谷は視察後の記者団の取材に対して、「国防産業庁長官との意見交換では、日本側のトルコの無人機産業への関心を共有し、協力の可能性を検討するため実務者レベルの協議を立ち上げることとした」と明らかにした。その上で、記者団から、各国から注目されているトルコ製無人機などの防衛装備品を導入する方針があるか問われ、「今回の企業などへの訪問は、トルコ製の防衛装備品の取得を予断するものではない」とした一方、「今後、当局間で具体的な協力の可能性について検討していく」と述べ、導入について両国の間で協議していく考えを示した[34][35][36]。また、イスタンブールにあるトルコ海軍の造船所や、ロシアによる侵略に抵抗するウクライナや、ナゴルノ・カラバフ紛争でロシアが支援するアルメニアと戦ったアゼルバイジャンに供与され、数多くの戦果を挙げ、世界や地域におけるトルコの存在感を高めるきっかけにもなった攻撃型無人機「バイラクタルTB2」などを製造しているバイカル社など、防衛関連施設・企業を訪問した[37]。
20日にトルコで行った記者会見において、中谷はトルコを訪問して感じたことをこのように述べている[38]。
また、私自身、昨日、無人機を製造をするTUSAS社を視察をしまして、本日も海軍の造船所を視察をいたしましたけれども、このトルコの国産化にこだわってますが、国産化を推し進めるこのトルコの防衛産業の能力の進展を目の当たりにしました。今後、実務レベルの協議を通じて、結果が出るということを期待をいたします。なお、国産化に舵をきったというのは、様々な外交的な要因もありましたけれども、要は国産化を進めているうちにですね、やはりできるんだと、やればできるんだということで、トルコがですね、それを実証しているわけで、かなりのたくさんの国々とですね、防衛装備のですね、協力関係も実施しておりますが、非常に国産化に伴った防衛産業の育成に力を入れているなということを感じました。今回のトルコ訪問におきましては、伝統的な友好国であるトルコとの間で、様々な分野において防衛協力をさらに進めていくための具体的な道筋について認識を共有できたということは、大きな成果でございます。
また、記者からの質疑応答でも同様の趣旨のことを聞かれ、このように答えている。
トルコは、NATOにおける2番目に大きな地上戦力、これを有しております。現在、軍の近代化、これを進めておりまして、防衛産業の分野の面におきましては、装備品の国産化を推進しているということを確認いたしました。今回の出張におきましては、国防産業庁のほか、トルコ航空宇宙産業、イスタンブール海軍造船所を訪問いたしました。また、トルコの装備関連施策のほか、装備品の開発・生産の現場を直接確認をしまして、様々な声・意見を聞くことができました。今後の我が国の防衛に必要な装備品を総合的に検討する上で、大変有意義な情報が得られたわけでございます。また、日本とトルコの防衛相会談におきましては、潜在的な協力分野としまして、防衛装備・技術協力の可能性について議論をいたしました。日本・トルコ防衛産業間の交流の実現に向けて、装備当局間で議論を開始をするということで一致をしまして、今後の防衛関連施設・企業との関係におきましては、今般もそこを訪問をいたしましたけれども、トルコ製の防衛装備品の取得を予断するものではありませんけれども、今般の防衛相会談の結果も踏まえまして、今後防衛当局間で具体的な協力の可能性について検討をしていくということになります。
国防相のヤシャル・ギュレルは2026年1月4日までに共同通信の取材に応じ、日本が導入を視野に入れるトルコ製無人機について、長時間の滞空能力があり、継続監視や費用対効果の高い運用ができ、日本の抑止力になると強調し、選定に期待を示した。トルコ製無人機は実戦経験を踏まえて開発されており、「信頼性が高い柔軟なシステムだ」とアピールした。ギュレルは、日本が検討する可能性がある機種としてトルコ航空宇宙産業のアンカを挙げた。無人機メーカー、バイカル社のバイラクタルTB2や、後継機バイラクタルTB3なども「日本の防衛能力に貢献できる」と強調した[39]。
2026年5月5〜9日の5日間、イスタンブールでは日本を含む各国から1700を超える企業などが参加する大規模な防衛装備品の展示会が開かれ、最新鋭の無人機や防衛システムなど、様々な技術が紹介された。展示会に合わせて日本とトルコの両国政府の関係者が出席し、今後、双方の民間企業どうしで無人機を含む様々な装備品の共同開発などをめぐり協力関係を強化していくことを確認する文書が取り交わされた。日本側の代表者として出席した防衛装備庁参事官の府川秀樹は「トルコは防衛装備、防衛産業の成長が著しい。日本とトルコが相互に自分達の得意な分野を持ちあって、よりいいものを作ることができると考えている。」と述べた[40][41][42]。中国の海洋進出に対抗し、沿岸防衛能力の強化を急ぐ日本にとって、実戦配備を見据えた装備開発は重要な課題となっており、日本の精密制御技術とトルコの実績ある機体プラットフォームを組み合わせれば、従来よりも高度な偵察・攻撃能力を備えた無人機が生まれる可能性が指摘されている。専門家の間では、この協力が低コストで高性能な無人機システムを求める新興国市場で、アメリカ・中国・ロシアに代わる選択肢として浮上する可能性があることから、世界の防衛産業の供給網に大きな影響を与えるとの見方が出ている。「無人機大国」を目指す日本とトルコの接近は、今後、インド太平洋と中東を結ぶ新たな安全保障の軸になる可能性が指摘されている[43]。
2026年5月末、トルコ政府高官は同年7月7〜8日の2日間、アンカラで開催されるNATO首脳会議に内閣総理大臣の高市早苗を招待したいとの意向を示した[44]。同年5月30日までに外相のハカン・フィダンは日経新聞の取材に応じ、「ミドルパワー(中堅国)の国々がより一層連携することが必要だ」と語り、防衛産業や技術分野における日本との協力拡大に意欲を示した[45]。
文化・経済交流
日本には多くのトルコ友好協会があり、トルコとの交流が積極的に行われている。
〈トルコ政府系団体〉
〈トルコ政府連携友好協会〉[48]
- 日本・トルコ協会(東京)[49]
- 日本・トルコ婦人クラブ(東京)[50]
- 一般社団法人 大阪・トルコ協会(大阪)[51]
- 九州・トルコ協会(福岡)[52][リンク切れ]
- 北海道日本トルコ友好協会(北海道)[53][リンク切れ]
- 日本トルコ文化経済交流支援協会(愛知)[54]
- 一般社団法人 日本トルコ民間友好協会(東京)[55][56][出典無効]
- 砺波市トルコ友好交流協会(富山)[57]
- 柏崎トルコ友好協会(新潟)[58]
- 特定非営利活動法人 日本ガレノス協会(群馬)[59]
- 日本トルコ文化協会(京都)1987年10月24日設立[60]
- 神戸・トルコ友好協会 トルコーべ(兵庫)[61]2006年設立[62]
- 和歌山トルコ文化協会(和歌山)[63]
- 串本町トルコ文化協会(和歌山)[64][65]
外交使節
在トルコ日本大使・公使
在日トルコ大使
- フルシ・フアット・トゥガイ(代理公使、1925~1929年)
- ジェヴァト・エジネ(ジェヴァト・ベイ)(1929~1931年)
- ネビル・バトゥ(1931~1936年)
- ヒュルセヴ・ゲレデ(1936~1939年)
- アフメト・フェリト・テク(1939~1943年)
- アリ・ムザッフェル・ギョケル(1944~1945年)
- ※1945~1952年は、トルコから日本への駐箚なし
- イッゼト・アクサルル(1952~1955年)
- セミフ・バラン(1955~1957年)
- スレヤ・アンデリマン(1957~1959年)
- ケマル・カヴル(1960~1962年)
- メリフ・エセンベル(1963~1966年)
- トゥルグト・アイトゥー(1967~1970年)
- ムスタファ・シュクリュ・エレクダー(1970~1974年)
- ジェラル・エイジェオール海軍大将(1974~1979年、信任状捧呈は12月24日[66])
- ナジフ・ジュフルク(1979~1983年)
- ヌルヴェル・ヌレシュ(1983~1987年)
- ウムト・アルク(1987~1992年)
- ネジアティ・ウトカン(1992~1996年、信任状捧呈は2月1日[67])
- ギュンドゥズ・スフィー・アクタン(1996~1998年、信任状捧呈は11月22日[68])
- ヤマン・バシュクト(1998~2002年、信任状捧呈は12月24日[69])
- ソルマズ・ユナイドゥン(2003~2007年、信任状捧呈は2月3日[70])
- セリム・セルメット・アタジャンル(2007~2011年、信任状捧呈は4月5日[71])
- アブドゥルラフマン・ビルギチ(2011年、信任状捧呈は6月10日[72])
- セルダル・クルチ(2012~2014年、信任状捧呈は7月4日[73])
- アフメト・ビュレント・メリチ(2014~2017年、信任状捧呈は5月7日[74])
- (臨時代理大使)デハ・エルペッキ(2017~2018年)
- (臨時代理大使)ハーカン・オズデミル(2018年)
- ハサン・ムラット・メルジャン(2018~2021年、信任状捧呈は1月17日[75])
- (臨時代理大使)エメル・デリンオズ・テキン(2021年)
- コルクット・ギュンゲン(2021~2024年、信任状捧呈は5月27日[76])
- (臨時代理大使)ジェミル・ウフック・トールル(2024年~)