材木町 (会津若松市)
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地理
世帯数と人口
歴史
中世
中世、現在の会津若松市付近は相模国三浦氏の一族、蘆名氏によって領されていた。蘆名氏は城を築いてこれを鶴ヶ城と称し、周辺は重臣や商人が集住していたとされる。その後、伊達政宗の入城を経て豊臣秀吉の奥州仕置により蒲生氏郷が入り、城下を若松とした[3]。
近世
当時、現在の材木町周辺には、材木町、河原町、河原町新丁、新町、材木町分などがあった。
各町、各町分の概要
材木町
材木町は1610年、それまで集中して米代の西、城郭内にあった木材売買関連の商家が移って成立したとされる[4]。河原町の西から南方向に続く町で、会津藩により治められていた江戸時代においては若松城下のうち城郭外西部に位置する5間の通りであった。また、当時の材木町周辺は、湯川などの洪水によりたびたび被害を被っており、家屋が流されることがあったほか、町割が改めて行われることもあったとされる[4]。
河原町新丁
河原町新丁は、材木町の北側から柳原組町に至る通りで、正保年間以降の成立とされている[5]。
材木町分
材木町分は、材木町の西南に続く地域に位置し、若松城下の町分では当時の東黒川に属していた。また、新屋敷、太郎兵衛新田、芋茎新田(いもがらしんでん)などの地名も見え、太郎兵衛新田では青物の市も立っていたとされる[4]。
近代
若松城下に大きな被害を残した戊辰戦争ののち、明治時代に入ると、江戸時代からの若松城下の町は再編された。現在の材木町周辺では、旧来の材木町に加えて、河原町新丁、新町の一部により若松材木町となった[4]ほか、川原町(河原町)も新町の一部を編入、一部が新横町の一部に編入されるなどし、若松川原町となった[5]。その後、これらの町は1889年に町村制の施行によりそれぞれ若松町内の町名となったほか、合わせて若松を冠称しない材木町、川原町の町名となった。1899年には若松町の市制施行によりそれぞれ若松市の町名となる。また、後に一部が材木町となる日吉村が材木町分、花畑組町、石塚の合併により成立し、その後、1889年に周辺の村との合併により門田村の一部となる[6]。
現代
1955年、当時の若松市と高野村、一箕村、神指村、門田村、東山村、大戸村、湊村が合併、会津若松市となったことから、以後材木町、川原町など周辺の地域は同市の町となったほか、門田村の地域も同市の門田町となる。その後、1960年代に会津若松市の住居表示が実施され、現在の材木町周辺も対象となる。そして、1965年、旧来の材木町、川原町、門田町大字日吉のそれぞれ一部により材木町(一丁目、二丁目)が誕生したほか、旧来の材木町の一部は1966年に住吉町となり、現在に至る[7]。
町名の変遷
小・中学校の学区
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[8]。
| 番地 | 小学校 | 中学校 |
|---|---|---|
| 全域 | 会津若松市立城西小学校 | 会津若松市立第四中学校 |

