駅前町 (会津若松市)
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地理
歴史

近世
江戸時代、会津藩によって周辺の地域が治められていた。しかし、当時は鉄道が日本で実用化されておらず、現在の駅前町周辺に駅前町という地名は無かった。当時、現在の駅前町付近には糠塚町(ぬかづかまち)、石堂分などが存在していたとされる。
各町、町分の概要
糠塚町
糠塚町は若松城下の城郭外北部、大町の北側に位置しており、足軽同心が居住していたとされている。また、本町の起源は江戸時代初期に原組赤井村において、糠塚に神殿を開発して歩卒を置いたことによっており、その後、大町北側に移転したものとされている。通丁、裏町、外裏町、木椎町、新田丁、松円寺前通の地名があった[4]。
石堂分
石堂分は若松城下の町分で、当時、西黒川に属し、糠塚町の北側に存在していた。化政期には38軒の家があったことが記録されている[5]。
近代
明治時代に入ると、江戸時代からの若松城下の町は再編され、糠塚町は一部が若松大町名子屋町に、残りが石堂分に編入された。また、1877年(明治10年)に石堂分が石堂村になったほか、蚕養宮村と上河原分のそれぞれ一部が合併し、あとに駅前町の一部となる上蚕養村が成立した。1889年(明治22年)になると若松大町名子屋町は大町名子屋町となったほか、石堂村は周辺の村と合併して栄和村に、上蚕養村は周辺の村と合併して蚕養村となった。その後、1889年(明治22年)に町村制の施行により大町名子屋町は若松町の町となり、1899年(明治32年)には若松町の市制施行により若松市の町名となったほか、蚕養村は1891年(明治24年)に一箕村に改称、栄和村は1903年(明治36年)に分割され、旧石堂村付近は町北村の一部となった[5][6][4][7]。
1899年(明治32年)、当時の岩越鉄道により現在の駅前町付近に若松駅が開業した。その後、1904年(明治37年)に喜多方駅まで開通、1906年(明治39年)の国有化を経て、1914年(大正3年)に岩越線は郡山駅 - 新津駅間を全通、1917年(大正6年)に磐越西線へと改称する。また、1917年(大正6年)には若松駅が会津若松駅に改称されたほか、1926年(大正15年)には当時の会津線(現在の只見線にあたる)が会津坂下駅まで開通している。1937年(昭和12年)には、若松市により町北村の一部が編入され、町北村のうち会津若松駅付近の地域は当時の若松市の一部となった。
現代
1951年(昭和26年)に町北村、1955年(昭和30年)には高野村、一箕村、神指村、門田村、東山村、大戸村、湊村が若松市と編入合併し、会津若松市となる。これより、大町名子屋町は会津若松市の町となったほか、町北村、一箕村は会津若松市の一部となった。その後、1960年代に入ると会津若松市の住居表示が実施される。これにより、1967年(昭和42年)に大町名子屋町、町北町大字石堂、町北町大字上荒久田、一箕町大字上蚕養のそれぞれ一部により、駅前町が誕生する。また、その後、土地区画整理法の規定にしたがって大町土地区画整理事業が行われ、中央通り、公園、下水道などがそれぞれ整備された[8][9]ほか、新たに町北町大字石堂、一箕町大字上蚕養のそれぞれ一部が編入された[10]。
近年は、駅前町町内にあった商業施設会津サティの閉店に加えて、会津若松市街地にあった商業施設中合会津店の閉店の影響もあり、現在は中心市街地活性化を図る動きが見られる。特に、会津若松市中心市街地を対象に行われている戦略的中心市街地賑わい再生事業(街なかテナントミックス事業[11])では、会津サティ、中合会津店に入居していたテナントの誘致などを含む活動を行っている[12][13]。
町名の変遷
世帯数と人口
小・中学校の学区
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[14]。
| 番地 | 小学校 | 中学校 |
|---|---|---|
| 全域 | 会津若松市立城北小学校 | 会津若松市立第一中学校 |
