中央 (会津若松市)
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地理
世帯数と人口
歴史
近世

江戸時代、会津藩によって周辺の地域が治められていたが、現在の中央周辺に中央という地名はなく、'大町、馬場町、千軒道(せんげんみち)など、若松城(鶴ヶ城)城下の一部だった[4][5][6]。
各町の概要
大町
大町は若松城下の城郭外北部、当時の上町に属する町で、大町口の郭門から北方向に向かう幅4間あまりの通りであった。傍出町として一之町、二之町、三之町、四之町、道場小路町(加えて、大町竪丁、馬場立丁なども見られている)があったとされ、大町のうち五之町から北を大町名子屋町といったとされる。大町は蒲生氏郷により治められていた文禄元年に移転されており、それ以前には若松城郭内にあったが、若松城郭外に移されたとされている。大町は、当時の若松城下において商業の中心地で、刀鍛冶、荒物屋、茶屋、油屋、絹布屋などをはじめとする店があったほか、通りは若松城下の中心的な通りとして賑わった[4]。
馬場町
馬場町は若松城下の城郭外北部、当時の上町に属する町で、馬場町口の郭門から北に向かう幅5間あまりの通りであった。傍出町として一之町、二之町、三之町、四之町、五之町があったとされ、馬場町のうち五之町から北を馬場名子屋町といったとされる。馬場町は大町に同じく、蒲生氏郷により治められていた文禄元年に移転されており、それ以前には若松城郭内(本一之丁にあった馬場に続く町であったとされる)にあったが、若松城郭外に移されたとされている。馬場町は、大町と並んで当時の若松城下において商業の中心地で、塗職人をはじめとする職人などが住んでいたとされる。また、1と8の日には六斎市も立っていたとされている[5]。
千軒道
千軒道(せんげんみち)は若松城下の城郭外北部、当時の上町に属する町で、大町、馬場町の北側に位置していた。千軒道、木戸千軒道、紫雲寺前通などの地名があり、浄土宗の浄国寺、清林寺、定善寺、真宗の蓮華寺、本光寺、福証寺、満福寺、曹洞宗の紫雲寺があった。これらの寺院はそれぞれ城郭郭外の造営の際、城郭郭内から移転したものが多いとされているほか、当町の地名はかつて周辺に千軒の家があったことによるとされている[6]。
近代
明治時代に入ると、江戸時代からの若松城下の町は再編され、大町は大町一之町、大町二之町、大町三之町、大町四之町、大町竪町、大町二之竪、大町三四之竪、大町原之町、大町名子屋町に、馬場町は馬場上一之町、馬場上二之町、馬場上三之町、馬場上四之町、馬場上五之町、馬場下一之町、馬場下二之町、馬場下三之町、馬場下四之町、馬場下五之町、馬場一之竪町、馬場二之竪町、馬場三之竪町、馬場四之竪町、馬場名子屋町になった。そのほか、後に中央の一部となる甲賀町でも千軒道の一部を編入し、町域が変更された。また、これらの町名は、1889年(明治22年)まで若松を冠称していた。その後、1889年(明治22年)に町村制の施行によりこれらの町は若松町の町となり、1899年(明治32年)には若松町の市制施行により若松市の町名となった[4][7][5]。
現代

1944年(昭和19年)の神明通り開通、1951年(昭和26年)の若松市による町北村を編入などを経て、1955年(昭和30年)には当時の若松市と高野村、一箕村、神指村、門田村、東山村、大戸村、湊村が合併し、会津若松市となる。これより、以後大町一之町、馬場上一之町など周辺の町は同市の町となる。その後、1960年代に入ると会津若松市の住居表示が実施される。これにより、1967年(昭和42年)には大町(大町一丁目、大町二丁目)などが誕生したが、1960年代に中央という町名の町が周辺に誕生することは無かった[4]。その後、土地区画整理法の規定にしたがって大町土地区画整理事業が行われる。これは、旧来の大町二之町、大町三之町、大町四之町、馬場下五之町などの地域を対象にしており、中央通り、公園、下水道などをそれぞれ整備した[8][9]。そして、1982年(昭和57年)に旧来の馬場下一之町、馬場下二之町、馬場下三之町、馬場下四之町、馬場一之竪町、馬場二之竪町、馬場三之竪町、馬場四之竪町、馬場名子屋町に加えて、大町一之町、大町二之町、大町三之町、大町四之町、大町名子屋町、馬場下五之町、甲賀町、白虎町、町北町大字石堂、一箕町大字上蚕養のそれぞれ一部により、中央一丁目、中央二丁目、中央三丁目が成立した[10]。
中央の成立後、町域西部を通る中央通り、神明通り付近の商業地を中心に商業が発展する。しかし、近年は神明通り商店街などで空洞化が進んでおり[11]、これらの地域では中心市街地活性化を図る動きが見られる。神明通りでは、ベンチ等の設置、イルミネーションの実施[12]などが行われている。また、町域内の一部では、マンションなどの高層建築物が立つ。
町名の変遷
| 実施後 | 実施年月日 | 実施前 |
|---|---|---|
| 中央一丁目 | 1982年(昭和57年)2月28日 | 大町一之町(一部) |
| 大町二之町(一部) | ||
| 大町三之町(一部) | ||
| 大町四之町(一部) | ||
| 馬場下一之町(一部) | ||
| 馬場下二之町(一部) | ||
| 馬場下三之町(一部) | ||
| 馬場下四之町(一部) | ||
| 馬場下五之町(一部) | ||
| 馬場一之竪町(一部) | ||
| 馬場二之竪町(一部) | ||
| 馬場三之竪町(一部) | ||
| 馬場四之竪町(一部) | ||
| 馬場名子屋町(一部) | ||
| 町北町大字石堂(一部) | ||
| 中央二丁目 | 大町名子屋町(一部) | |
| 馬場下一之町(一部) | ||
| 馬場下二之町(一部) | ||
| 馬場下三之町(一部) | ||
| 馬場下四之町(一部) | ||
| 馬場下五之町(一部) | ||
| 馬場一之竪町(一部) | ||
| 馬場二之竪町(一部) | ||
| 馬場三之竪町(一部) | ||
| 馬場四之竪町(一部) | ||
| 馬場名子屋町(一部) | ||
| 町北町大字石堂(一部) | ||
| 中央三丁目 | 甲賀町(一部) | |
| 馬場下一之町(一部) | ||
| 馬場下二之町(一部) | ||
| 馬場下三之町(一部) | ||
| 馬場下四之町(一部) | ||
| 馬場下五之町(一部) | ||
| 馬場一之竪町(一部) | ||
| 馬場二之竪町(一部) | ||
| 馬場三之竪町(一部) | ||
| 馬場四之竪町(一部) | ||
| 馬場名子屋町(一部) | ||
| 白虎町(一部) | ||
| 町北町大字石堂(一部) | ||
| 一箕町大字上蚕養(一部) | ||
小・中学校の学区
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[13]。
| 番地 | 小学校 | 中学校 |
|---|---|---|
| 一丁目1・2番、3番5~22号 | 会津若松市立謹教小学校 (会津若松市立鶴城小学校、 会津若松市立行仁小学校選択可) | 会津若松市立第三中学校 (会津若松市立第二中学校、 会津若松市立第一中学校選択可) |
| 一丁目3番23~37号、4番5~37号、 5番4~36号 二丁目1番5~22号、2~4番、5番5~19号 | 会津若松市立謹教小学校 (会津若松市立行仁小学校選択可) | 会津若松市立第三中学校 (会津若松市立第一中学校選択可) |
| 一丁目3番1~4・38~48号、 4番1~4・38~48号、5番1~3・37~46号 二丁目1番1~4・31~33号 | 会津若松市立鶴城小学校 (会津若松市立行仁小学校選択可) | 会津若松市立第二中学校 (会津若松市立第一中学校選択可) |
| 二丁目1番23~30号、5番1~4・20~36号、 6番、7番1~4号・19~37号、8・9番 三丁目1番1~7・18~38号、3番1~10号 | 会津若松市立行仁小学校 | 会津若松市立第一中学校 |
| 二丁目7番5~18号 三丁目1番8~17号、2番、 3番11~32号、4~10番 | 会津若松市立城北小学校 | 会津若松市立第一中学校 |

