追手町 (会津若松市)
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地理
歴史

中世、近世
1384年、小田垣に蘆名直盛が東黒川館を築いた。これがのちに黒川城、小田垣城と言われるようになる。その後、蒲生氏郷により黒川が若松と改められ、1593年には城の改築をはじめた。これによって完成したのが天守(七層)、馬出、櫓などを備える城で、この際に内外の郭もつくられた。また、1640年、加藤明成は城の追手を北にしたほか、天守を五層に改めた[4]。
明治元年9月22日(1868年)、戊辰戦争の戦いの結果、若松城は降伏し、開城する[5]。
近代
明治時代に入ると、民生取締所、民生局による統治を経て、1870年[要検証]に若松県が置かれたほか、江戸時代からの若松城下の町は再編され、本丁、米代、小田垣、横道、権現下郭に加えて、小田町、半兵衛町のそれぞれ一部(加えて外小田垣を含むともされる)が合わさり、若松栄町となった。栄町の町名は、戊辰戦争により周辺の地域が大きな被害を受けたため、以後栄えることを願い付けられたものされている[6]。また、若松県庁が城内に置かれていた時期があったほか、1875年、新政府の方針により若松城は取り壊されている[5]。
その後、1877年に旧来の福島県、磐前県、若松県が合併されて福島県となったことから若松県は廃止されたほか、1889年に町村制の施行によりそれぞれ若松町内の町名となる。1889年、合わせて若松栄町は栄町の町名となり、1899年には若松町の市制施行により若松市の町名となる[6]。
現代
1955年、当時の若松市と高野村、一箕村、神指村、門田村、東山村、大戸村、湊村が合併、会津若松市となったことから、以後栄町は同市の町名となる。その後、1960年代に会津若松市の住居表示が実施され、現在の追手町周辺も対象となる。そして、1965年、旧栄町の一部により追手町が誕生する[7]。
また、1965年には若松城(鶴ヶ城)の再建工事が実施され、これにより天守が再建されている。この天守は現在鶴ヶ城博物館として公開されており、さまざまな資料を展示している。その後、1990年には麟閣(茶室)の移築、2001年には干飯櫓、南走長家の復元がそれぞれ行われるなどされている[8]。現在は鶴ヶ城修繕工事として外壁の補修工事及び、赤い瓦への葺き替えが行われており、2011年の春に完成する予定である[9]。
町名の変遷
| 実施後 | 実施年月日 | 実施前 |
|---|---|---|
| 追手町 | 1965年2月1日 | 栄町(一部) |
世帯数と人口
小・中学校の学区
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[10]。
| 番地 | 小学校 | 中学校 |
|---|---|---|
| 1番1~12・15号以降、3~6番 | 会津若松市立鶴城小学校 | 会津若松市立第二中学校 |
| 1番12~14号、2番、7番 | 会津若松市立謹教小学校 | 会津若松市立第三中学校 |