皆生温泉
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中国地方における位置 | |
| 温泉情報 | |
| 所在地 | 鳥取県米子市 |
| 座標 | 北緯35度27分23秒 東経133度21分42秒 / 北緯35.456303度 東経133.361803度座標: 北緯35度27分23秒 東経133度21分42秒 / 北緯35.456303度 東経133.361803度 |
| 交通 | JR山陰本線米子駅から5km、日交バス・日ノ丸バスで19分、タクシーで15分 |
| 泉質 | 塩化物泉(塩化土類食塩泉[1]) |
| 泉温(摂氏) | 89[1] |
| 湧出量 | 56万リットル/日[1] |
| 液性の分類 | 中性 |
| 浸透圧の分類 | 高張性 |
| 宿泊施設数 | 20 |
| 年間浴客数 | 388,032[2] |
| 統計年 | 2017[2] |
| 外部リンク | 皆生温泉旅館組合 |
弓ヶ浜の皆生海岸に面する東西1,000m、南北400mの狭い範囲に大型ホテルを含む宿泊施設が集積する。その収容規模は約5,000人で、山陰最大級[3]である。鳥取県が入湯税を基に算出した調査に拠れば、近年は年間40万人前後が利用しており、2017年現在、鳥取県内の温泉では最も入湯客が多い[2][注 1]。「米子の奥座」、「山陰の熱海」とも呼ばれる[5]。
主成分
塩化物泉で[1]、第三紀の安山岩層の割れ目から湧出している[6]。1900年(明治33年)に発見されたが、海岸侵食によって当初の源泉は水没してしまい、護岸工事が行われた[6](後述)。湧出量も多く、源泉の温度は鳥取県内で最も高温である[6][7]。
皆生温泉の集中管理泉
温泉街
歴史
1884年(明治17年)頃、砂浜から180メートル沖合の海面が泡だっているのが漁師に発見され、「泡ノ場」と呼ばれるようになった[9][10]。ところが日野川を流されてくる土砂によって海岸が前進し、「泡ノ場」はどんどん陸に接近してきた[9]。これに注目した地元の事業家・伊島源太郎が温泉掘削を計画したが、実行に移される前に、漁師である山川忠五郎が浅瀬に湧き出る熱湯を偶然発見した(1900年(明治33年)秋)[10][11]。事業家や村が温泉の開発経営を試みたがいずれも失敗し、経営難となった[9]。
これを引き継いだのが米子の実業家有本松太郎で、1921年(大正10年)に会社を設立して福生村(現在の米子市の一部)から土地を買収した[9]。有本は京都を模して街区整理による都市計画をすすめると共に、鉄道(米子電車軌道)、競馬場(皆生競馬場)を整備し、様々なイベントを開催して集客に勤めた[9]。背後の大山と美保湾越しの島根半島・夜見ヶ浜や、隠岐島の遠景などの景観と米子市に近いことから[10][6]、山陰随一の温泉歓楽街となった[12]。
温泉地区が海浜に立地することで、長年にわたって海岸侵食による影響を受けてきた[9]。特に冬季は日本海からの強風で海浜の侵食が激しく、海岸が一晩で13メートル後退したこともある[9]。20年間で海岸線は60メートル以上後退し、11軒の旅館のうち7軒が水没するに至った[9]。対策として鳥取県が防砂堤や防潮堤を造り、砂州を造成して侵食を食い止めている[9]。
戦後は団体客が多く訪れるようになり、今日に見られるような温泉街に発達する。一方で歓楽温泉から健康的な温泉へイメージ変化を図っており、1978年(昭和53年)には弓ヶ浜に海水浴場を整備、1981年(昭和56年)には日本で最初のトライアスロン競技(全日本トライアスロン皆生大会)が開催され、その発祥の地として毎年大会を開催している。その他スキー、キャンプ、登山、釣りなどの拠点としての開発も行っており、その他イベントの開催や郷土文化の伝承、来訪者の手形を嵌め込んだ海岸遊歩道の整備など様々な試みが行われている。





