松下むめの
From Wikipedia, the free encyclopedia
井植清太郎の次女として兵庫県津名郡浦村(現在の淡路市)に生まれる[3]。浦高等小学校を卒業後、技芸学校に通って裁縫技術を覚えた後、大阪に出て船場(京町堀)で女中奉公を務める。炭屋を経営していた平岡屋の紹介で、松下幸之助と出会う。見合いは松島にある芝居小屋「八千代座」の前で行われた。見合いとは言っても目の前を通り過ぎるだけのものであった。この結婚に父であった清太郎は強く反対するが、当のむめのの意思は変わらなかった。[4]1915年(大正4年)に松下幸之助と結婚。[3]。式は幸之助の姉夫婦であった亀山家で行われた。結婚後、新居を生野区猪飼野に構える。幸之助は事業独立にあたり当初はおしるこ屋を画策するが、むめのが強く反対したことで、電気器具の製造へ舵を切った経緯がある。松下電器工業の設立後は、同会社の従業員の世話係や幸之助の経理等を務め[3]、「社員の母」という異名を持った[3]。1921年(大正10年)4月、第一子となる幸子を出産。同時に入籍する。この当時、現代ほど戸籍に関心が強くない時代背景もあったが、むめのは実質的に結婚後6年にわたって「事実婚」状態であった。1926年(大正15年)6月には第二子の幸一を出産するが、僅か8ヶ月後の1927年(昭和2年)2月4日に夭折した。1935年(昭和10年)、松下電器産業株式会社に法人改組。同時に、これまで経理業務を担ってきたむめのは、その役職を解かれた。その後はみどり会結成の一員としても活動した[3]。