松川光子
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出身は岡山県。就実高校に通っていたが、毎日授業をサボってパチンコ店に行くような「バリバリの不良」であった。2年生の時、高松に出て街をふらついていた時に偶然競輪場に入ると、そこで行われていた女子競輪に目を奪われる。車券を買ってみると的中し、大卒の新入社員の初任給が6000円くらいだった時代で5700円ほどの払い戻しを受けたという。そこで自身も競輪選手になろうと決意したが、中々募集がなく、そのまま高校を卒業。その時父親に「競輪選手になりたい」と告げると「絶縁する」と激怒され、岡山で建てた家を譲るからそれを売ってその金で暮らしていけ、とも言われた。とは言えその一方で、父親は大山一海にこっそりと光子のことを頼み込んでくれており、その縁で大山に弟子入り。自宅を売却した金で自転車を買い、残りは全てお世話になる大山に渡した[5]。
女子競輪は徐々に人気が下火となっていたこともあり、新規で選手募集が中々掛からない状態ではあったが、18か19歳かの頃にようやく募集が掛かった時が女子4期生(33名)の募集で、次の5期生が女子競輪の最後の選手募集だったという[6][7]。1957年の『競輪ファン』12月号には当時4年ぶりとなる女子選手募集の記事が掲載されており、松川も受験時の姿が写真で掲載されていた[7]。
プロテストに合格後、日本サイクリストセンター(当時)での3か月間の研修の最後の方での1000mタイムトライアルで1分22秒出したことで「怪物がデビューする!」と話題になった[8]。
1957年、会津競輪場でデビュー、そこから静岡の新人王者決定戦まで6連勝[8]。
1961年には第18回全国都道府県選抜競輪(岸和田競輪場)女子2000m競走で優勝、同年は923,250円を獲得して初の賞金女王となる。
1962年には第13回高松宮妃賜杯競輪(大津びわこ競輪場)でも優勝する。
1964年10月31日、選手登録消除[1]。女子競輪が廃止されるまで現役を続けた。
現役時代は身長163cm、体重70kgだった[9]。
競輪選手を引退後は騎手になろうとしたが、体格が大柄だったため断念。絵を描くのが好きだったこともあり看板屋に就職するも、すぐには絵を描かせてくれなかったため即辞めてしまい、そのあとも弁当屋、植木屋など40ほどの職業を転々とするも、朝から夕方まで働いても簿給だったこともあって、長続きしなかった。ある日、当時何かとお世話になっていたという先生から「取れる資格は全部取った方がいい」と言われたことをきっかけに、運転免許などの資格を取っていき、鍼灸師の資格も取る。現役時代は高松であったが、大阪の鍼灸の学校に通っていたこともあり、晩年は豊中市で主に出張治療による鍼灸師として活動した[10]。
主な獲得タイトルと記録
参考文献
- 伊勢華子『健脚商売 競輪学校女子一期生24時』中央公論新社、2015年。ISBN 978-4-12-004801-2。
- 日本自転車振興会 編『競輪三十年史』日本自転車振興会、1978年。 NCID BN0283928X。