田中和子 (競輪選手)
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| 基本情報 | ||||
| 本名 |
高橋 照子[1] たかはし てるこ | |||
| 国籍 |
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| 生年月日 | 1935年1月14日[2][1] | |||
| 没年月日 | 2014年4月26日(79歳没) | |||
| 選手情報 | ||||
| 期別 | 期前 | |||
| 登録地 | ||||
| 1950 - 1961年 | 奈良 | |||
| ■最終更新日:2025年10月12日 ■テンプレートを表示 | ||||
田中 和子(たなか かずこ、1935年1月14日[2][1] - 2014年4月26日[3])は、元女子競輪選手。本名、高橋 照子(たかはし てるこ)[1]。兵庫県出身。現役時代は日本競輪選手会奈良支部所属、ホームバンクは甲子園競輪場。日本競輪選手養成所設立以前の期前選手で、選手登録番号は405(女子)[4]。現役時代に結婚し高橋姓となったが、選手登録名は引退するまでそのまま旧姓である田中和子で通した。
中学生の頃、夙川学院中学校の1期生であり、のちに田中と同じく奈良支部所属の女子競輪選手となる親友の松下五月(まつした さつき[5])と西宮市内の自転車店で出会う[6]。
松下はかつて親戚が鳴尾競輪場(当時)の場内で売店を営んでおり、うどんやらおでんやらその売店の売り物がタダで食べることができたこともあって売店の手伝いをしており、よく鳴尾競輪場に出入りしていたという。松下によると、ちょうど中学二年生の時に女子競輪が始まり、鳴尾競輪場で女子競輪を見たその瞬間に衝撃を受け、自身も競輪選手を目指すようになった、とのこと[7]。
当時、田中の親は鳴尾競輪場(当時)内で食堂(松下によると、喫茶店とのこと)[8]を営んでおり[6]、また松下曰く、自宅が近所で「田中さんとは年齢もやけど、誕生日も一月十四日で一緒[2]」だったこともあって仲良くなり、競輪選手になりたかった松下からの誘いを受けたこともあり、同じく選手を志すようになる。
選手募集を県単位で自転車振興会(当時)が独自に行っており、その時点では兵庫県での募集はなく、たまたま奈良県自転車振興会が実施していた選手登録検定(プロテスト)を受けた[5]。また、当時の選手登録検定の受験資格は満16歳以上であったが[1]、二人はともに中学校を卒業したばかりの15歳で受験年齢を満たしていなかったものの、特に松下が一刻も早くデビューしたかったこともあって、二人とも実姉の戸籍謄本を提出して年齢をクリアしていた。田中は1933年9月21日生まれとして選手登録されたが[4]、実姉の和子の戸籍謄本が元となっており、松下によると、当時の本名は田中照子(たなか てるこ)、本当の生年月日は1935年1月14日であった[2]。選手登録検定では、1000m独走が1分40秒5であったが、松下が1分33秒であったため、タイムの速かった松下が選手登録番号404、田中が405となった[2]。
- 友人でもあり同時期に女子競輪選手としてデビューした松下も、当時の本名は松下利津子(まつした りつこ、現姓・安田)であったが、年齢制限をクリアするため6歳上である実姉の五月の戸籍謄本を提出した[1]。そのため、1952年発行の雑誌『競輪ファン』には23歳として紹介されたが、当時の実際の年齢は16歳か17歳であった[9]。ただ、選手登録においては、実際の生年月日である1935年1月14日生まれとして登録されている[4]。松下によると、デビュー当時は登録審査が甘かったこともあり、『松下五月』のまま通ってしまったことで、結局は1964年10月の女子競輪廃止による引退までそのまま「松下五月」で通したという[10]。ただ、その実情を知っていた選手の中には、松下と同じ昭和十年(1935年)生まれだったが戸籍謄本の生年月日の欄に書かれていた「昭和十年」に一本線を足し「昭和九年」(1934年)生まれに誤魔化して年齢制限をクリアした選手もいたという[1]。
今とは異なり、選手登録検定に合格すれば即デビューできたほか、松下とともにホームバンクは甲子園競輪場であったが、奈良県の募集で合格したこともあり、そのまま奈良支部所属としてデビューした[11]。のち、1952年2月に、東京都北多摩郡調布町(当時。現在の調布市)にあった日本サイクリストセンター(当時)に集められた田中、松下も含む222人の女子選手が「(昭和期)女子1期生」とされている(ただしデビュー年は各自バラバラであった)[9]。
デビュー戦は松下と同じ1950年9月の取手競輪場で、初出走初勝利を挙げた。その開催では2日目は落車転倒するも、最終日は決勝戦に出走し3着(落車転倒して決勝戦に進出できた理由は不明)。当時、大学卒の月給が約9000円だった頃で、このデビュー戦の賞金は2万円だったという[11]。その直後に鳴尾事件の影響で競輪開催が休止となったが、その休止期間中の街道練習で阪神国道のバス停にあった石を避けたあとに穴ぼこに突っ込んで17針を縫う大怪我を負ったことで、恐怖心から再開後しばらくは成績が上がらなくなった[12]。
デビューしてまもなくの頃は、神奈川の渋谷小夜子が断然強く、田中はその影に隠れていた形となっていたが、渋谷の走りを参考に練習をしたり、男子選手から先行型で競走できるように練習するようアドバイスを受けたこともあり[12]、徐々に強さを取り戻していった。
1952年に川崎競輪場で開催された第6回全国争覇競輪において渋谷らを破って初のタイトルを奪取した。さらに渋谷が引退すると独擅場の強さを誇るようになり、特別競輪を15回制覇。また、後続をぶっちぎって悠々と1着ゴールしたケースも数知れず、落車を1回した以外は全て1着であったという年まであった[13](過去の新聞では、判明しているだけでも「70連勝」[11]「22連覇」という記事が確認できる[14])。
年間賞金女王も引退するまでに5回、特に1952年は昭和期の女子競輪では最高となる1,852,220円を獲得した(1951年は資料毀損で不明)[15]。この驚愕ともいえる強さから、今もなお、昭和期の女子競輪(1949年 - 1964年)の代表選手として、田中の名前を挙げる人は少なくない。ちなみに「男子選手」の特別競輪全冠制覇は1988年の井上茂徳まで達成した選手はいなかったが、女子競輪における「全冠制覇」は、田中が1955年に達成しており、また女子では唯一の全冠制覇選手でもある[16]。また、当時トップスターの一人であった高橋恒と結婚したが、結婚後もしばらく競走生活を続けていた。
しかし1960年限りで引退を表明し、1961年4月25日選手登録消除[4]。その後、田中が引退したことでスター選手不在も同然となり、昭和期の女子競輪廃止の機運が一気に高まったと見られる。
引退後は一男一女を儲け、そのまま甲子園競輪場・西宮競輪場のあった西宮市に居住[12]。親が営んでいた食堂の経営を引き継いだ[17]。
松下によると、晩年は身体が弱り、特に最晩年は寝たきりとなっており(認知症の症状も見られた模様)、夫の恒は来客があっても他人には和子を会わせようとはしなかったという[18]。
主な獲得タイトル
- 1952年
- 第6回全国争覇競輪(川崎競輪場)
- 1954年
- 第5回高松宮妃賜杯競輪(大津びわこ競輪場)
- 第9回全国争覇競輪(川崎競輪場)
- 1955年
- 第6回高松宮妃賜杯競輪(大津びわこ競輪場)
- 第9回全国都道府県選抜競輪(大宮競輪場)
- 第10回全国争覇競輪(大阪中央競輪場)
- 第3回競輪祭(小倉競輪場)
- 1956年
- 第10回全国都道府県選抜競輪(名古屋競輪場)
- 第7回高松宮妃賜杯競輪(大津びわこ競輪場)
- 第11回全国都道府県選抜競輪(神戸競輪場)
- 1957年
- 第8回高松宮妃賜杯競輪(大津びわこ競輪場)
- 1958年
- 第14回全国都道府県選抜競輪(花月園競輪場)
- 第15回全国都道府県選抜競輪(一宮競輪場)
- 1959年
- 第16回全国都道府県選抜競輪(立川競輪場)
- 1960年
- 第17回全国都道府県選抜競輪(一宮競輪場)
- 年間賞金女王
- 1952年、1955年、1957年、1958年、1959年