松浦新之助
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松浦 新之助 | |
|---|---|
| まつうら しんのすけ | |
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1941年撮影 | |
| 生誕 |
1891年11月15日 静岡県榛原郡川崎町[1] |
| 死没 |
1975年4月6日(83歳没) 福岡県[2] 老衰 |
| 居住 |
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| 国籍 |
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| 研究分野 | 化学 |
| 研究機関 |
広島高等工業学校 九州帝国大学 九州大学 静岡女子短期大学 静岡女子大学 |
| 出身校 | 東京帝国大学理学部卒業 |
| 指導教員 | 柴田雄次 |
| 主な指導学生 |
神田慶也 国分信英 |
| 主な業績 |
ラドンの研究 弗素の研究 |
| プロジェクト:人物伝 | |
松浦 新之助(まつうら しんのすけ、1891年〈明治24年〉11月15日[3] - 1975年〈昭和50年〉4月6日[2])は、日本の化学者。位階は正四位。勲等は勲二等。学位は理学博士(東京帝国大学・1934年)。九州大学名誉教授。
広島高等工業学校教授、九州帝国大学理学部教授、九州帝国大学理学部学部長(第2代)、九州大学理学部教授、九州大学理学部学部長(初・第4代)、静岡女子短期大学学長(第3代)、静岡女子大学学長(初代)などを歴任した。
来歴
生い立ち
1891年(明治24年)に生まれ[8]、静岡県にて育った[4]。東京帝国大学に進学し[4]、理学部の化学科にて学び[4]、柴田雄次の門下となる[5]。1919年(大正8年)に東京帝国大学を卒業し[4]、理学士の称号を取得した[† 1]。さらに大学院にて学んだ。博士論文として「Velocity of permeation of electrolytes through a membrane」[9]を執筆している。1934年(昭和9年)12月7日に東京帝国大学の理学博士の学位を得ている[9][† 2]。
化学者として

広島高等工業学校に採用され[4][5][† 3]、教授に就任した[4]。
1938年(昭和13年)、九州帝国大学にて理学部の新設が計画され[† 4]、化学科の主任の教授として松浦に白羽の矢が立った[5]。理学部発足を前に学部規則や学科課程を制定する委員会が設置されることになり[11]、新学部の教授予定者である西久光、伊藤徳之助、三宅三郎、木下亀城、渡邊久吉、福原満洲雄が委員となった[11]。その時点でまだ教授に任命されていない松浦も委員として参加した[11]。この委員会によって1939年(昭和14年)3月に学部規則や学科課程の原案が決定された[11]。同年に九州帝国大学に理学部が設置され、松浦は教授に正式就任した[4]。それと同時に無機化学を講じる第一講座が発足し[12]、松浦がこれを受け持った[12]。学内においては要職を歴任しており、西久光の後任として1946年(昭和21年)5月20日に理学部の学部長に就任した[6]。
九州帝国大学は1947年(昭和22年)に九州大学に改組されたが、以降も引き続き理学部の教授を務めていた[4]。学部長もそのまま続投となり、以降1948年(昭和23年)7月15日まで務めていた[6]。なお、後任の学部長には同年7月15日に妻木徳一が就任している[6]。さらに、伊藤徳之助の後任として再び学部長に就任することになり[6]、1952年(昭和27年)7月16日から1954年(昭和29年)7月15日まで務めていた[6]。なお、後任の学部長には同年7月16日に岡崎篤義が就任している[6]。さらに1953年(昭和28年)8月、理学部に附属天草臨海実験所が設置されるとその所長にも就任した[13]。なお、1948年(昭和23年)の『人事興信錄』によれば、既に位階は正四位[4]、勲等は勲三等に叙されている[4]。また、九州大学からは名誉教授の称号が授与されている[14]。
1962年(昭和37年)5月、静岡県が設置する公立短期大学である静岡女子短期大学の学長に就任した[7][† 5]。前任の大杉繁が同年3月に退任して以来[7]、静岡県副知事の山口和夫が学長事務取扱として統率してきたが[7]、松浦が専任の学長に就任することで新たな体制が整った。
その後、同じく静岡県が設置する公立大学として静岡女子大学が新設されることになった[7][† 6]。それを受け、1967年(昭和42年)4月から静岡女子大学の学長も同時に兼任することとなった[7]。なお、1969年(昭和44年)5月には松浦の後任の学長として斎藤久雄が就任した[7]。1967年(昭和42年)11月、勲二等旭日重光章を受章[15]。1975年(昭和50年)4月6日、老衰のため死去した[2]。
研究
専門は化学である。東京帝国大学在学中は柴田雄次の指導を受けて錯体問題に取り組むなど[5]、錯体化学に関する分野を研究していた。九州帝国大学勤務時には、同じく柴田雄次の門下である篠田栄や岩崎岩次らと地球化学的な視座に基づき日本列島の西部における温泉の研究に取り組んだ[5]。特に三瓶温泉などのラドンの研究に従事していた[5]。また、京城帝国大学より転入してきた国分信英に対して弗素の研究を指導した[5]。そのほか、中華民国にて石炭の化学的な研究を行った[16]。1940年(昭和15年)9月には海南島にて温泉の化学的な研究を行った[17][18]。1941年(昭和16年)8月からは満州国や中華民国にて石炭の利用について研究を行った[19][20]。また、ドイツ国やアメリカ合衆国への留学を経験している。
学術団体としては日本化学会や日本温泉科学会に所属していた。社団法人である日本化学会においては、武原熊吉の後任として1944年(昭和19年)に会長に就任した[21][† 7]。日本温泉科学会においては、岡田弥一郎の後任として1957年(昭和32年)に会長に就任した[14]。