柳田聖山
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出生から学生時代
1922年、滋賀県愛知郡稲枝村(現在の彦根市)の延寿寺(臨済宗)に生まれた[1]。寺名の延寿寺は、宋朝文化を代表する五山の一つ杭州西湖の霊隠寺で、宗鏡録を書き上げた高徳、永明延寿の名に基づく[2]。1940年滋賀県立彦根中学校を卒業。
臨済学院専門学校(現:花園大学)、大谷大学[1]を卒業し、永源寺僧堂で修行する。京都大学文学部聴講生となって学び、久松真一に師事してFAS禅運動に共鳴。中国禅宗史研究において批判的資料研究を進め、資料が史実ではなく、その時代の要請によって創作されたことを見抜いた。
戦後
1949年、花園大学仏教学部の助手となった。1950年に講師、1954年に助教授、1960年に教授に昇格[1]。1968年からは文学部長を務めた。1950年に柳田姓に改姓。1976年に京都大学人文科学研究所教授に就任[1]。1985年には同所長に就任する。1986年、所長を定年退官して名誉教授となった。退任後は中部大学教授を務めた。1988年からは花園大学文学部教授となり、花園大学国際禅学研究所長も務めた。1993年には自宅を禅学研究所へ寄贈し、「柴門館」となった。1996年に所長を退任し、没時まで終身研究所員であった。
また市民活動にも理解を示し、1992年には市民団体「環境市民」の共同代表となった。また、1990年には峨眉山に良寛詩碑を建立している。2006年11月8日に死去。墓所は生家の延寿寺にある[3]。