楠木正虎
1520-1596, 戦国時代~安土桃山時代の人物
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生涯
大饗氏[注釈 1]の出。生国は備前[1][注釈 2]。のち、伊勢国神戸(現在の三重県鈴鹿市神戸)に住したという(『梶川系図』)[4][1]。大饗氏の名は楠木一族の和田氏の本貫地であった河内国の大饗(現堺市美原区)に由来するという[4]。はじめは通称を大饗長左衛門(甚四郎)。『尊卑分脈』所収『橘氏系図』によれば、楠木正成の孫・楠木正秀の子という河内大饗氏の大饗正盛の子孫・大饗隆成の子[4][2]。京都の烏丸に邸宅を持っていたようで、子の正辰の妻に山科言経の妻の妹を迎えるなど、公家社会とも関係を有していた[4]。
織田家、豊臣家の右筆(書記官)を担当した[1][4]。正虎は、書を飯尾常房に学んだといわれる(飯尾常房は文明17年(1485年)に没しているので、実際にはその弟子筋の人物に学んだと推測される)。世尊寺流の当代一流の書家であった[1]。
天文22年(1553年)までに、正虎は松永久秀に仕えたようで、その年に信貴山朝護孫子寺に参詣し、先祖の楠木正成の供養と自身の武運長久を祈願している[4]。また、松永家内で奉行人としても活躍し、清水寺が久秀に禁制を求めた際、その取次を行った[4]。
正虎は楠木正成の子孫と称したが、正成ら楠木氏が朝敵とされていたために楠木姓を名乗れず、朝廷にその赦免を嘆願した[5]。これには松永久秀による朝廷への取り成しや、将軍・足利義輝の了解もあった[4][6]。
永禄2年(1559年)11月20日、正虎は正親町天皇より、正成ら楠木氏を赦免する綸旨を受けて、晴れて楠木姓を公言できるようになった[4][5](『旧讃岐高松藩士楠氏家蔵文書』[注釈 3])。さらに、正虎は正成と同じ河内守に叙任する綸旨も頂戴した[4]。
正虎が久秀の家臣であった際、清原枝賢から論語についての講義を受けた[4]。また、正虎は枝賢に『楠氏系図』の作成を依頼している[4]。さらに、枝賢に教わったことで、建武式目の写本を作成できるレベルの教養を身につけた[4]。
天正3年(1575年)には式部卿法印に叙せられ、松井友閑らとともに佐久間信盛の監督官の立場に任じられる。
天正9年(1581年)2月の京都御馬揃えでは、坊主衆の一員としての参加が確認できる(信長公記)。
織田信長が羽柴秀吉の妻である高台院に出した古文書があり、これは昭和初期まで信長の直筆とされてきたが、右筆の正虎が書いたものであることが明らかとなった[8]。
出身である備前焼の有力窯元であった備前大饗氏とは親しい関係が続き、天正10年(1582年)3月に羽柴秀吉が備前に滞留した際は大饗邸に滞在した[9]。
文禄元年(1592年)からの朝鮮征伐に際しては、肥前国名護屋城において、石田三成の父である石田正継とともに記帳などにあたった。後に従四位上・河内守に任じられた。