正倉一文

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職業
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
正倉 一文
(まさくらいちぶん)
同人誌会員 正倉一文
生誕 1958年(67 - 68歳)
東京都の旗 東京都品川区東五反田
職業
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 日本大学 農獣医学部 獣医学科 中退
北海道大学 経済学部 経済学科 卒業
ジャンル
文学活動 同人誌
文芸誌
ウェブ
代表作 エッセイ
  • 「冬の庭」
  • 「前途晴朗なり」
  • 「父とすいとん」
  • 「ステンレス鋼」
  • 「絶望から希望へ」
  • 「父、東京へ 苦学の思い出」
主な受賞歴 エッセイ
  • 第20回 文芸思潮エッセイ賞 優秀賞
  • 第19回 文芸思潮エッセイ賞 佳作
  • 第18回 文芸思潮エッセイ賞 奨励賞
  • 第17回 文芸思潮エッセイ賞 入選
  • 第15回 文芸思潮エッセイ賞 佳作
  • 第14回 文芸思潮エッセイ賞 佳作
  • 第25回 随筆春秋賞 奨励賞
  • 第24回 随筆春秋賞 奨励賞
  • 第23回 随筆春秋賞 奨励賞
小説
  • 第18回 文芸思潮 銀華文学賞 入選
ピアノ
  • 第2回 河合楽器音楽コンクール全国大会 ピアノ中級部門 委員長賞(1位)
デビュー作 エッセイ :
「ステンレス鋼」
公式サイト 随筆春秋ポータル(公式)
文学世界.com
【資格】
日本語文章力検定協会:
日本語文章力4段(プロ級)
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正倉 一文(まさくら いちぶん、1958年昭和33年[1][2] - )は、日本随筆家[1][2]同人誌随筆春秋の会員[3]で、直木賞作家佐藤愛子[注 1]・エッセイスト近藤健[注 2]の門下生[4][5][6]である。日本語文章力検定協会による日本語文章力4段(プロ級)を取得している[7][8]

出自から現在へ

1958年、東京都品川区東五反田5丁目の池田山に建つ関東逓信病院(現・NTT東日本関東病院)で生まれる[9]。当時、父親は日本電信電話公社(現・NTT)に勤務する公務員だった[注 3][9]。退職後、父親には瑞宝双光章叙勲[10][11]が授与され、逝去後[注 4]従六位叙位[10][11]に叙されている。

東京都立富士高等学校を卒業後、現役で、千葉大学工学部建築学科に不合格[12][13]。一浪して、日本大学農獣医学部獣医学科に進学[14]するが、予期せぬ失恋により、中退[15]

その後、北海道大学経済学部経済学科に入学。札幌市内の藻岩山の麓にあった学生寮に入寮し北海道経験する[16]1984年に同校を卒業[17]後は、日本製鉄(旧・日本金属工業[注 5]SMC[注 6]日本エア・リキード(旧・帝國酸素→テイサン)[注 7]製造業に勤務し、2000年の42歳で退職[注 8]

会社では大卒幹部採用だったが、最終的には手取り年収400万円台の実質的な現業職であった[注 8]。本人の記述によると、2025年現在、血族および姻族5親等以内の親族[注 9]には、図らずも、2人の学者と5人の医師がいる[17]

2015年には自分史の執筆を開始し、翌2016年にはその製本版と電子版を上梓(詳細は「自分史」を参照のこと)。2017年、59歳で随筆春秋賞に応募したのを契機に、同年10月には同人誌「随筆春秋」[18]の事務局に掬われ[注 10][19]会員となり、以後は同誌を中心に活動し、現在に至る。[1][2][注 11]

音楽の道を断念

遡って1968年8月[20]には、第2回カワイ楽器音楽コンクール全国大会(場所:東京文化会館、小ホール)のピアノ中級部門で委員長賞(1位)を受賞[20][21][22]河合楽器製作所社長(当時)・河合滋より賞状を授与される[20]

当時、東京都中野区内の小学4年生だった。ゲスト審査員のクロイツァー豊子[注 12]が当該大会の「大賞」(総合1位)に推したが、同賞はピアノ上級部門から選出するという大会規定(当時)により見送られた[22][注 13]。なお、この受賞は大手新聞地方版でも報じられている[22][23]

同年秋には、カワイ音楽教室のピアノ教師を対象に、指揮者・近衛秀麿[注 14]を迎えた公開個人レッスンが鬼怒川温泉あさやホテルで開かれ、近衛の指導のもと、同年のコンクール課題曲を演奏した。[23]

その後、NHKが放送していた音楽教室[注 15]へのテレビ出演の打診を受けたが辞退。さらには、東京藝術大学のピアノ科教授から入門許可[注 16]を得たものの、両親の方針により、音楽家への道を断念。[注 17][21][23]

ポスター展入選

1971年、中学2年生のとき、美大出身の担任教諭の指導で、東京都「緑の週間」ポスターコンクール[24]に応募し、入選した経験がある[22]

中学では武藤肇[注 18][25][26]と同級生で、レコード鑑賞を通してクラシック音楽を伝授された。その後、学習院大学で武藤氏は当時の皇太子(現在の今上天皇[注 19])と同級生となり、音楽部(オーケストラ)[注 20]では同じヴィオラを担当した。氏は、天皇陛下のご学友である。[27]

山中の合宿生活

1990年4月からの1年間[注 21]、31歳〜32歳にかけて、岐阜県恵那郡串原村(現・恵那市串原)の標高700メートルの山中にある、世界救世教いづのめ教団が運営する、自然農法の試験農場「串原センター・耕福塾」で合宿生活を送る。そこで、総勢約30名の賄い[注 22]を任されていた。

塾生全員で、富士山西面の「大沢崩れ」の侵食対策として行政主導で実施されたプロジェクトに参加した。作業では、の苗の根の部分に土を丸く固めたもの(現場では「ささだんご」と呼称、これを大沢崩れの斜面に定着させる目論見)を袋に詰め、約30kgの荷として山頂外輪山の山小屋・富士見亭(現・頂上富士館[28])から各自が背負って運搬した。この夏、塾生は富士見亭に1週間を超えて宿泊した。[29]

舎監(塾長)である伊藤孝一(元 関東学院大学 国際交流センター 初代室長・無教会主義プロテスタント)の指導のもと、塾生一同で1冊の本を上梓した。その際、印刷を依頼した静岡県沼津市にある図書印刷の工場に1週間、寝泊まりして仕事[注 23]を覚えた。耕福塾での経験は後年の作品の素材ともなっている。[30][29]

海自艦船に乗艦

1993年5月以降、日本エア・リキード(当時テイサン)[注 7]に勤務し、都内事業所で技術営業を担当した。当時は医療用MRIの導入が本格化し始めた黎明期[注 24][31]であり、MRIの超電導コイルの冷却材である液体ヘリウムの需要が拡大し、その販売活動に従事した。

また、同社では潜水ガスを製造しており、海上自衛隊潜水医学の研究部門と接点があった。1993年から1994年にかけて海上自衛隊・横須賀基地を訪問する機会があり、艦船に乗艦することがあった。潜水艦では、毎週金曜日の規定メニューであるカレーライス[注 25]も艦内食堂で何度か供された。[19][32]その後、会社では、子会社に出向[33]となり、最終的には筑波山を間近に望む工場配置転換[33]となる。

失われた15年

2000年の42歳で会社員生活に区切りをつける。その後の15年、つまり57歳で自分史の執筆を開始するまでは、特に記すべきこともない人生を送ることになる(失われた15年)[34][35]。その間、2008年の50歳を過ぎて、非定型発達者であることが専門医の診断により判明する[36]。その影響もあり、成育期に受けたいじめ暴力の体験を題材とした作品も発表している[37][38][39][40][41][42][43][44]

この15年は、1993年のバブル崩壊[注 26]に続く長期停滞、いわゆる「失われた30年[注 27]の中盤にあたり(「失われた30年」の終端は、2024年の「日本銀行ゼロ金利政策の撤廃」ともいわれる)、森政権に続く小泉政権から第2次安倍政権へと至る、首相が頻繁に交代[注 28]した不安定な時代だった。そして、2017年の59歳で同人誌随筆春秋」の事務局に掬われ[注 10]会員となり、現在に至る。

総論的締め括り

月給を勤め人の甲斐性とするならば、人物は不甲斐なく、自身の著述によれば、妻帯の経験もない。作品を通覧[45]すると、「この人にとって学歴の価値や労働の対価とは一体なんなのだろうか」と考えさせられる。百科事典という紙面で文学的表現を借りれば、人物は典型的な冷や飯食い体質である。一方、略歴を俯瞰すると自在に生きた感もある。結局、会社で糧を得ることは難しいと悟り、「自分の金ぐらい 自分で稼げ 馬鹿者めが!」[注 29][46]と開きなおるまでの道程が自身の作品には描かれている[46]

なお、 随筆春秋は、WikipediaWordPress青空文庫と同様、社会貢献団体である。つまり、これらを支えているのは有志諸氏による、「無償活動」である。随筆春秋のそういうところが気に入っているのだ、と本人は自身のブログで綴っている。[47]

文学活動

文芸思潮

文芸思潮は、年4回発刊される文芸誌であり、各種文学賞を主催する団体でもある[注 30]。これらについては山梨日日新聞[48]が継続的に報じている[49][50][51][52][53][54]。また、同誌に関しては、全国紙で取り上げられることがある[55][56][57][58][59]

各賞募集要項については、公募ガイド社が刊行する季刊誌『公募ガイド』[60]および同社ウェブサイトが継続的に掲載[61][62][63][64][65]している。文芸思潮エッセイ賞[66]と同様、エッセイを対象とする公募の文学賞には、小諸・藤村文学賞随筆春秋賞などがある。

随筆春秋

随筆春秋[注 31][3]は、同人誌である[注 32]直木賞作家・佐藤愛子が1995年から指導者を務めている[67]。同誌については新聞の文化面などで取り上げられることがある[68][69][70][71]。同誌文学賞[注 33]の募集要項は、随筆春秋ポータル[注 34]の中で継続的に公開されている。

同募集要項については、公募ガイド社『公募ガイド』[60]および同社ウェブサイト[72]にも継続的に掲載されており、同社編集部による紹介文が付記されている[73]。また、公募ガイド社が公表する「公募文学賞アクセスランキング」では、第31回随筆春秋賞・第6回佐藤愛子奨励賞(2025年度)が8位にランクされている[74]

受賞歴

エッセイ

「文芸思潮」エッセイ賞

  • 2025年「父とすいとん」で第20回 文芸思潮 エッセイ賞、優秀賞[75]
  • 2024年「前途晴朗なり」で第19回 文芸思潮 エッセイ賞、佳作[76]
  • 2023年「絶望から希望へ」で第18回 文芸思潮 エッセイ賞、奨励賞[77]
  • 2022年「冬の庭」で第17回 文芸思潮 エッセイ賞、入選[78]
  • 2020年「夢を追う覚悟」で第15回 文芸思潮 エッセイ賞、佳作[79]
  • 2019年「ステンレス鋼」で第14回 文芸思潮 エッセイ賞、佳作[80]

随筆春秋賞

  • 2019年「犬走りを行く」で第25回 随筆春秋賞[18]、奨励賞[81][82]
  • 2018年「二クロム線」で第24回 随筆春秋賞[18]、奨励賞[81][82]
  • 2017年「父、東京へ  苦学の思い出」で第23回 随筆春秋賞[18]、奨励賞[81][82]

小説

「文芸思潮」銀華文学賞

  • 2025年『ずっと小説家になりたかった僕が語る、奈津子の死』で第18回 文芸思潮 銀華文学賞、入選[83]

[注 35]

受賞者紹介ページと作品評

  • 第20回 文芸思潮エッセイ賞 優秀賞の受賞に際し、文芸思潮 第97号(2025年9月)[84]には、受賞作「父とすいとん」とともに作者紹介ページ[81]が設けられている。
  • 第18回 文芸思潮エッセイ賞 奨励賞の受賞に際し、文芸思潮 第91号(2023年3月)[85]には、受賞作「絶望から希望へ」の末尾に顔写真と略歴[82]が掲載された。

これらに加え、同誌では受賞作品に対して、選考委員による次のような「選評」が公開される。五十嵐勉は、当該エッセイ賞の選考委員で、文芸思潮・編集長[48]。若手[86]都築隆広[86]は同賞・選考委員であり、両氏は作家集団「塊」KAI[86]のメンバーである[86]

「父とすいとん」の作者は珍しい題材を父親の好きだったすいとんを通して見事に造形した。すいとんを自身の手でこだわり作って味わうその嗜好のなかに、太平洋戦争空襲下の学生時代の父親の苦学の思い出が滲んでいると同時に、親切に世話をしてくれたアパートの大家の娘への愛惜が潜んでいる。

そしてそれと同時に、その親切で純朴な年上の女性が太宰治に愛を寄せ心中した事実が描かれて、驚嘆の展開を見せる。私は有名な人物、有名な事件に依存する手法を好まないが、これは山崎富栄という女性の別な日常的側面を筆者の父親の恋心のなかに捉えることによって、すいとんにこだわる父親との繋がりのうちにその存在を鮮やかにしている。危うい側面を持ちながらもしっかり描出して、技量を上げたことが確認された。

―五十嵐勉(「文芸思潮」97号[84]、106頁)

惜しくも優秀賞となったが、「眉村ゼミの事」と「父とすいとん」の二作にも高得点を入れた。「眉村ゼミ」はSF作家眉村卓の追悼文であり、青春群像劇にもなっていて、読み物としても高水準だった。また、商業作家は時代に消費され、死後、忘却され易い。著名な人物であっても風化を食い止めるためには、指導者としての横顔があったことを誰かが書きとめておくべきだろう。

「父とすいとん」は推理小説めいた構成のエッセイだ。市井の人のように語られていた人物が、実は純文学界隈では名の知れた「有名人」だと分かる。世には出ていない記録だろうから、今後、作家研究における貴重な史料にもなりうるだろう。しかし、上記二作品は「著名人の知名度」に頼る側面があり、そこに足を引っ張られた。

―都築隆広(「文芸思潮」97号[84]、115–116頁)

また、都築隆広[86]は、エッセイという文芸ジャンルの今後の行く末について、同じ選評の中で、自らの考えを述べている。以下にその部分を抜粋した。

さて、「枕草子」や「徒然草」のような古典随筆が存在し続けていたとはいえ、かつては「軽い読み物」としての印象しかなかった文芸ジャンル、エッセイ。しかし、この賞と共に広く成長し、深く成熟している。落選も当選も、投稿者には悲喜交交[注 36]あったろうが、何百、何千という応募作は、一作たりとも無駄にはなっていないだろう。

何を書いてもいい、浅くても深くてもいい、だけど生半可な散文の位置にいつまでも甘んじてはいない。エッセイという濁流は荒れ狂い、大河となってどこまで流れてゆくか。これからも一観測者として、先の先まで見届けてゆきたい。

―都築隆広(「文芸思潮」97号、116頁)

掲載作品(エッセイ)

随筆春秋

  • 「歴史の縁をつなぐ―都立富士高校と札幌農学校、そして僕―」第64号、2025年9月。[87]
  • 「古戦場に建つ我家」第63号、2025年3月。[88]
  • 「父にとっての山崎富栄さん」第62号、2024年9月。[89]
  • 「津軽海峡波高し」第60号、2023年9月。[90]
  • 「ずっと小説家になりたいと思ってきた」第59号、2023年3月。[91]
  • 「父、東京へ―苦学の思い出―」第58号、2022年9月。[92]
  • 「ラストスパート」第57号、2022年3月。[93]
  • 「札幌のホテルと受験時代」第56号、2021年9月。[94]
  • 「夢、追いかけて」第55号、2021年3月。[95]
  • 「随想・兵どもが夢の跡」第54号、2020年9月。[96]
  • 「犬走りを行く」第53号、2020年3月。[97]
  • 「名古屋の母」第52号、2019年9月。[98]
  • 「ニクロム線」第51号、2019年3月。[99]
  • 「春分の日―寒さの中で思い出すこと―」第50号、2018年9月。[100]
  • 「仕事をさせていただきます」第49号、2018年3月。[101]

文芸思潮

  • 「父とすいとん」第97号、2025年9月。[84]
  • 「絶望から希望へ」第91号、2023年3月。[85]
  • 「ステンレス鋼」第75号、2020年3月。[102]

[注 35]

著書

脚注

外部リンク

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