水判土
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歴史
もとは江戸期より存在した武蔵国足立郡植田谷領に属する水判土村で、古くは水判土荘内野郷に属していたと云われている[9]。さらに古くは戦国期より見出せる足立郡のうちの水判土であった。水判土は水波田とも記す[8]。村高は正保年間の『武蔵田園簿』では92石余、『元禄郷帳』では102石余、『天保郷帳』では115石余であった。助郷は中山道大宮宿に出役していたが、正徳・安永年間は日光御成街道大門宿にも出役していた。化政期の戸数は21軒で、村の規模は東西3町余、南北2町余であった[8]。 地名は低地の農地である水田(水畑)を意味する[8][4]。低地はかつての入間川の旧流路(現在の新川および鴨川)の氾濫原であった。 慈眼寺(じげんじ)には1591年(天正19年)11月10石の寺領(朱印地)が寄進されていた[10][8]。826年(天長3年)創建で、中世には慈眼寺に水判土館と称される城塁が存在していた[6]。
- はじめは幕府領、1633年(寛永10年)より知行は旗本多門氏[8]。検地の時期は不明。
- 享保年間(1716年〜1736年)より飛地に八貫野新田が開拓され、検地は1731年(享保16年)に実施[8]。
- 1828年(文政11年)より大宮宿寄場55か村組合に所属していた[8]。
- 幕末の時点では足立郡に属し、明治初年の『旧高旧領取調帳』の記載によると、幕府領(代官・大竹左馬太郎支配所)、および慈眼寺領[11]。
- 1868年(慶応4年)6月19日 - 武蔵知県事・山田政則(忍藩士)の管轄となる。
- 1869年(明治2年)
- 1871年(明治4年)11月13日 - 第1次府県統合により埼玉県の管轄となる。
- 1873年(明治6年) - 学制の実施により慈眼寺の境内を仮用して水判土学校(現さいたま市立植水小学校)が設立される[8][12]。
- 1879年(明治12年)3月17日 - 郡区町村編制法により成立した北足立郡に属す。郡役所は浦和宿に設置。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い、水判土村は北足立郡植田谷本村・島根村・佐知川村・中野林村・飯田村・三条町村と合併し、植水村となる。水判土村は植水村の大字水判土となる。
- 1955年(昭和30年)1月1日 - 植水村が指扇村・馬宮村・片柳村・春岡村・七里村とともに大宮市に編入される[13]。大宮市の大字となる。
- 1991年(平成3年) 地内を流れる鴨川の流域に「鴨川みずべの里」が造成される[14]。
- 2001年(平成13年)5月1日 - 浦和市、大宮市、与野市が合併しさいたま市となり、さいたま市の大字となる。
- 2003年(平成15年)4月1日 - さいたま市が政令指定都市に移行し、さいたま市西区の大字となる。
水判土荘
水判土荘(みずはたのしょう)とはかつて武蔵国足立郡のうちに見出していた荘名。領域は現在のさいたま市西部の概ね鴨川および荒川に挟まれた流域沿い、および上尾市南部の一部が該当する[8]。 属していた村は戸崎村、別所村、中新井村、清河寺村、内野本郷村、新井村、上加村、内野村、水判土村、佐知川村、中野林村、島根村、上下内野村、並木村、土屋村、遊馬村、在家村、五関村、下大久保村、神田村、道場村の21ヶ村[8]。
水判土村に存在していた小字
- 堀の内[15]
- 高田
- 摘田
- 観音脇
- 観音前
- 原
- 井戸尻
- 塚田
- スノコ島
- 二江川
世帯数と人口
小・中学校の学区
市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる[16]。
| 番地 | 小学校 | 中学校 |
|---|---|---|
| 全域 | さいたま市立植水小学校 | さいたま市立植水中学校 |
交通
- 地区内に鉄道は敷設されていないが、最寄駅としては大宮駅などが近い。
道路
水判土は古くからの交通の要衝であり[6]、現在でも下記の主要な道路が慈眼寺の門前にある水判土交差点で合流および分岐する。
バス
大宮駅西口方面からの路線バスが運行されている。さいたま市コミュニティバスは西区コミュニティバスの路線が地内の西側を通るが、停留所は設置されていない[17]。