永楽帝のモンゴル親征

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永楽帝のモンゴル親征 (えいらくていのモンゴルしんせい) は、中国・明王朝の第三代皇帝永楽帝が、モンゴル(北元)に対して行った五度の遠征の総称。1388年にトグス・テムルが死去し、北元が弱体化した後も、明は継続してタタールオイラト族などのモンゴルの残存勢力を攻撃し弱体化させ、北の国境の安定化を図った。

洪武元年(1368年)、朱元璋徐達の都だった大都(現在の北京)に軍を率いて派遣し、順帝は「北元」として知られる元帝国の統治を続けるため北へ逃れた 。 漁海の戦いの後、モンゴル勢力はタタール族、オイラト族、ウリャンカイ族に分裂した。 これらの部族政権は内部で互いに殺し合い、しばしば明の国境を妨害した。

永楽7年(1409年)、永楽帝は使節として郭冀をタタールに派遣したが殺害され、永楽帝は征服を決意した。

第一次遠征

永楽七年(1409年)、モンゴル帝国23代皇帝オルジェイ・テムルは明の使節を討ち取り、永楽帝は斉公秋扶を派遣して10万人の軍を率いてタタールを討伐させた。 国境問題を解消するため、永楽帝は自ら遠征を率いることを決意した。

明永楽8年(1410年)2月、永楽帝は50万人の軍を動員した。  5月8日、明軍は呂曲川(現在のクルレン川、成祖によって「飲馬河」と改名)へ進軍し、タタール・ハーンのオルジェイ・テムルが軍を率いて西へ逃げ、宰相アルクタイは東へ逃げたことを知った。 永楽帝は自ら兵を率いてオルジェイを西へ追撃し、5月13日には明軍がオノン川(現在のモンゴルとロシアの国境に位置)でオルジェイを破った。 その後、彼は軍を東のアルクタイに攻撃させるよう指示し、両軍は現在のモンゴルとロシアの国境にあたるオノン川北東部で戦った。 この時は天候が暑く、水が不足し、食料や草も手に入らなかったため、永楽帝は軍の帰還を命じた。

その結果、タタール人は散らばったモンゴル部族を襲撃し、永楽帝に馬で貢納を捧げ、永楽帝も多額の報酬を与え、大臣のアルクタイは永楽帝から与えられた「寧王」の称号を受け入れた。

第二次遠征

永楽8年(1410年)に明軍がタタールに進軍した後、オイラト族は急速に発展し、永楽11年(1413年)にはオイラト軍がルク川(現在のクルレン川)に駐屯し、中国を偵察した。

永楽帝は再び自ら進軍し、兵を動員し、食料を集めることを決意した。 永楽12年(1414年)2月、明軍は北京を出発し、6月3日には三峡口(現在のモンゴル・ウランバートル南東)でオイラト族の機動兵隊を撃破し、敵騎兵数十名を討ち取った。 月初7日、明軍は現在のモンゴル・ウランバートル南東に位置するブラン・フシウェンへ進軍し、3万人のオイラト軍は山岳地帯に入って三方面で抵抗した。永楽帝は騎兵を送り込み、敵兵を山から誘い出したため、劉勝に砲撃を命じ、自ら鉄騎兵を率いて敵陣に突入した。オイラト軍は敗北し、永楽帝はこの状況を利用して追撃し、部隊は複数の方向に分かれてオイラト軍を攻撃し、数千の敵を討ち取った。オイラト軍は次々と逃走した。 この戦いでオイラトは大きな打撃を受け、その後何年も国境侵攻しなかった。

第三次遠征

オイラトは明軍に敗北し、タタール人は数年で発展し、この機を利用して勢力を増し、明王朝への依存政策を変え、明王朝が派遣した使節を侮辱または拘束し、しばしば明とのの国境で嫌がらせや略奪を行った。 永楽十九年(1421年)の冬、タタール軍は明北部の主要都市である興河を包囲し、明軍の指揮官王襄を殺害した。

永楽20年(1422年)の3月、永楽帝は北京から軍を率いてタタール人を攻撃した。 主力が玄府南東の吉明山(現在の河北省宣化市)に到着すると、タタールの指導者アルクタイは明軍の攻撃を知り、戦闘を避けるために夜間に興河を脱出した。 7月、明軍は沙湖遠に到着し、タタールの手下を捕らえ、アルクタイが逃走したことを知り、永楽帝は追撃の停止を命じた。 帰路、明軍は五梁下三威らを破り、9月に北京へ戻った。 永楽帝の三度目の攻撃はタタールに一定の打撃を与えたが効果はなく、明の国境付近のモンゴル部族の問題が完全に解決したわけではなかった。

第四次遠征

第五次遠征

参考文献

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