永長地震

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過去に発生した南海トラフ地震の震源域の時空間分布

永長地震(えいちょうじしん)は平安時代後期に起きた巨大地震南海トラフ沿いの巨大地震と推定されている。東海道沖の地震[注 1]と考えられてきたが、本地震が南海道沖の地震も含むとする説も出されている[1]

この地震は嘉保年間に起きたが、この天変地異を期に約1ヶ月後の12月17日(ユリウス暦1097年1月3日)に永長改元され、年表上では永長元年となることから永長を冠して呼ばれる。『後二条師通記』、『中右記[2][3]、『百練抄』および『康富記[4]などに地震被害の記録がある。

約2年2ヵ月後に康和地震が発生しており、本地震とペアをなす南海道沖の地震と考えられてきたが[5]、康和地震を南海道沖の地震とするには『兼仲卿記』紙背文書の成立時期などいくつかの疑義があり、本地震が土佐の田苑の沈降を引き起こした南海道沖の地震をも震源域に含む可能性が唱えられている[1]

地震の記録

嘉保3年11月24日刻(ユリウス暦1096年12月11日8時頃、グレゴリオ暦1096年12月17日)、東海道沖に大地震が発生した。東海地方津波記録、および畿内付近の震害記録がみられる[6]

藤原宗忠日記である『中右記』には、この地震に関する詳細な記録があり、地震動が一(約2時間)程続き、東大寺の巨鐘が落下、薬師寺の回廊が倒壊、東寺九輪が落下、法成寺の東西塔が破損、法勝寺の御仏等光が破損したと記されている。東大寺の巨鐘の落下は延久2年10月20日(ユリウス暦1070年11月25日)の地震以来のことであった。閑院御所では堀河天皇が庭の池に浮かべた舟に避難したという[7]

『中右記』にはまた、近江勢多橋が落下し、伊勢阿乃津(安濃津、現・三重県津市)で津波によって多くの人家が破壊され、その他諸国でも同様であったなど伝聞から京都以外でも大きな被害があったことが記されている[8]

藤原師通が著した『後二条師通記』には辰時に6度震い、また駿河からの報告書に「去月廿四日に大地震があり、津波により社寺や民家が400余流失し、国家の大事なり」と記されていたとある[9]。この時代の地震の古記録は京都・奈良など畿内で書かれたものが殆どであり、駿河や伊勢の津波被害など地方の被害は伝聞として京都に伝えられ記録されたものである[10]

『近衛家文書』には「而去嘉保年中大地震之時□□々空変海塵、経数十年、爰此七八ケ年、漸為陸地、令開作之間、件両嶋、鹿取・野代両庄住人、」とあって、本地震で木曽川下流域の鹿取・野代の地が「空変海塵」の状態となり、年月を経て陸地に戻った様子が記述される[11]。木曾三川河口デルタの低地が強震動・液状化地盤沈降・津波の複合作用で崩壊、海没したものと考えられる[12]

『中右記』には、この地震前後から約2年後の康和地震頃まで多くの地震の記録が見られ、活発な余震活動が続いたことが窺われる[13]。この相次ぐ地震などのため、永長2年11月21日(ユリウス暦1097年12月27日)には再び改元され、元号は承徳に改められた[14]

阿波国太龍寺に関する古記録を集成した『太龍寺縁起』にも、本地震の記述が登場する[11][15]。しかし、この『太龍寺縁起』には土佐の沈降を伴ったとされてきた康和地震の記録はない[1]

嘉保二年乙亥ママ

十一月廿四日辰時、天下大震動、海内悉驚怖、祈之佛神、占之陰陽云々、是則有異國蜂起難、須有本朝不預之憤、故課處々之道場、令修種々之秘法、専依爲密教根本聖跡、即止阿波國太龍之靈地、令修瑜伽上乘之秘教、欲致祈祷中欄之精誠、於是佛子長範忝承綸旨、方勤勅願、天下安穏海内無爲也、因茲同三年八月廿三日任大師本願之先蹤、抽一條御宇之中誠、寄進那賀山五箇之庄國〔ママ〕、興隆大龍寺滿山之伽鹽、擺棘荊兮顯礎石、摧磐石兮方研基跡、非人力所難及、佛神能助者歟、龍神降兮闢寺地、天子肄兮建佛閣、遥送教廻之星霜、方説一寺之成就而己、

長治元年甲申八月廿五日記之

震源域

脚注

参考文献

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