永長地震
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地震の記録
嘉保3年11月24日辰刻(ユリウス暦1096年12月11日8時頃、グレゴリオ暦1096年12月17日)、東海道沖に大地震が発生した。東海地方の津波記録、および畿内付近の震害記録がみられる[6]。
藤原宗忠の日記である『中右記』には、この地震に関する詳細な記録があり、地震動が一時(約2時間)程続き、東大寺の巨鐘が落下、薬師寺の回廊が倒壊、東寺の九輪が落下、法成寺の東西塔が破損、法勝寺の御仏等光が破損したと記されている。東大寺の巨鐘の落下は延久2年10月20日(ユリウス暦1070年11月25日)の地震以来のことであった。閑院御所では堀河天皇が庭の池に浮かべた舟に避難したという[7]。
『中右記』にはまた、近江で勢多橋が落下し、伊勢阿乃津(安濃津、現・三重県津市)で津波によって多くの人家が破壊され、その他諸国でも同様であったなど伝聞から京都以外でも大きな被害があったことが記されている[8]。
藤原師通が著した『後二条師通記』には辰時に6度震い、また駿河からの報告書に「去月廿四日に大地震があり、津波により社寺や民家が400余流失し、国家の大事なり」と記されていたとある[9]。この時代の地震の古記録は京都・奈良など畿内で書かれたものが殆どであり、駿河や伊勢の津波被害など地方の被害は伝聞として京都に伝えられ記録されたものである[10]。
『近衛家文書』には「而去嘉保年中大地震之時□□々空変海塵、経数十年、爰此七八ケ年、漸為陸地、令開作之間、件両嶋、鹿取・野代両庄住人、」とあって、本地震で木曽川下流域の鹿取・野代の地が「空変海塵」の状態となり、年月を経て陸地に戻った様子が記述される[11]。木曾三川河口デルタの低地が強震動・液状化・地盤沈降・津波の複合作用で崩壊、海没したものと考えられる[12]。
『中右記』には、この地震前後から約2年後の康和地震頃まで多くの地震の記録が見られ、活発な余震活動が続いたことが窺われる[13]。この相次ぐ地震などのため、永長2年11月21日(ユリウス暦1097年12月27日)には再び改元され、元号は承徳に改められた[14]。
阿波国太龍寺に関する古記録を集成した『太龍寺縁起』にも、本地震の記述が登場する[11][15]。しかし、この『太龍寺縁起』には土佐の沈降を伴ったとされてきた康和地震の記録はない[1]。
