江川事件
「空白の一日」とも呼称される、1978年の日本プロ野球ドラフト会議前日に発生した読売ジャイアンツと江川卓の契約を巡る騒動
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江川事件(えがわじけん)は、1978年(昭和53年)のドラフト会議前日にプロ野球セントラル・リーグの読売ジャイアンツとのドラフト外入団によって契約を結んだ投手・江川卓の去就をめぐる一連の騒動である。

江川問題(えがわもんだい)、江川騒動(えがわそうどう)とも呼ばれ、野球協約の盲点(後述)によって契約した日から空白の一日(くうはくのいちにち)とも呼ばれる。
1973年(高校3年時)のドラフト

1973年(昭和48年)、江川は作新学院高等学校のエースとしてノーヒットノーラン9回、完全試合2回、選抜高校野球大会における大会通算最多奪三振記録などの数々の記録を残し、怪物として日本中の注目を浴びた。当然ながらプロ野球の目に止まるようになるが、江川と父・二美夫は大学への進学とプロ野球へは行かないと明言[1]、進学先として慶応義塾大学を希望していることも明らかになった。
11月20日、同年のプロ野球ドラフト会議が東京・日比谷の日生会館で行われ、阪急ブレーブスが1位で江川の独占交渉権を獲得した[2]。当時のドラフト会議はくじによって球団の指名順位を決定する変則ウェーバー方式が採用されており、1位指名では順位が上位だった大洋ホエールズ、南海ホークス、近鉄バファローズ、日本ハムファイターズ、中日ドラゴンズが江川の指名を回避し、阪急は次の6番目で指名した。なお、この年の巨人の指名順位は10番目だった。江川はドラフト会議終了後の15時過ぎに作新学院高等学校で記者会見し、阪急から指名されたことについて「関係ありませんよ」と一蹴、改めてプロ野球へ進む気は無いと述べ、阪急のスカウトと面会することも無いと表明した[3]。他球団の指名については「出来ればセ・リーグの球団、それも巨人に指名されて断りたかった」と語った[3]。報道陣は、かつて大学進学を公言しながら指名されると翻意してプロ入りした太田幸司・仲根正広を例に挙げて問うと「僕は違う」と即答し、両親がスカウトからの交渉に応じたとしても自身が反発すると述べた[3]。そこまで頑なな姿勢を貫く江川にその理由を聞いた際には「自信が無い。それに何か、また可能性が残されているような気がするので大学へ進みたい」と返答した[3]。なお、江川は後年の回想で「当時は完全に大学への進学を決めていたので、巨人であっても行かなかったと思う」と語っている[4]。
21日、阪急ブレーブスは球団代表の渓間秀典とスカウト部長の丸尾千年次が栃木県小山市の江川の自宅を訪問する。江川本人は高校の授業で不在のために父・二美夫が応対したが進学の意思は変わらず、交渉は今回限りにして欲しいと願い出た[5]。阪急は一度帰阪して冷却期間を置き、12月7日に丸尾が単独で江川の自宅を再訪した[6]。当日は母・美代子しかいなかったが丸尾はそれを承知の上での訪問で、約40分間の会談でも交渉は発展しなかった[6]。丸尾は1974年(昭和49年)1月1日午前6時50分に三度江川の自宅を訪れ、玄関のインターフォンを鳴らしたり、玄関から「江川さん!正月の挨拶に参りました」を呼びかけたが応答は一切無く、約2時間後に引き上げた[7]。帰阪した丸尾は1月5日に大阪・梅田の阪急電鉄本社へ出勤し、オーナーの森薫へこれまでの交渉を報告、江川の進学の意思が固いことから交渉を断念することを申し入れて了承され、阪急は江川との交渉を正式に断念した[8]。
江川は2月18日に慶応義塾大学法学部政治学科、19日に文学部、20日に商学部をそれぞれ受験したがいずれも合格発表時に名前が無く、全て不合格となった[9]。3月7日に法政大学第二部法学部政治学科を受験し、13日に合格が判明、江川は法政大学へ進学することが決まった。
1977年(大学4年時)のドラフト
ドラフト直前の巨人逆指名

法政大学では1年目から東京六大学野球連盟のエースとして活躍し、通算47勝(史上2位)、リーグ記録となる17完封を挙げた。ベストナインには6度選出され、通算443奪三振(当時1位)の記録も残した。1977年11月に野球部の活動を終了する。
11月9日、江川は母校である作新学院高等学校の理事長兼院長である船田中を訪ね、4年間の大学野球生活の終了を報告すると共に、来るドラフト会議後のプロ球団との交渉を一任することを要望し、船田はこれを快諾した。ところが船田は、19日に東京・平河町の船田事務所で記者会見を開き「江川君は読売ジャイアンツを強く望んでいる。身柄を一任されている私としては本人の希望をかなえさせてあげたい。指名がくじ引きであることは承知している。各球団が話し合って善処して欲しいと期待している」と発言し、江川の希望球団が巨人であることと他球団の指名を回避して欲しいと表明した[10]。船田が巨人を逆指名したことに対してプロ野球界からは「船田氏がどんな大物政治家であろうが、仮に総理大臣であろうが、その発言や意思に球界が動じる訳が無い(コミッショナーの金子鋭[11])」「江川家の意向を述べるだけならそれは自由。しかし、それがドラフト会議で他球団を拘束することにはならない。意向を述べるのが自由なら指名することも自由だ(セントラル・リーグ会長の鈴木龍二)」「政治的発言がどうあろうと、プロ野球に『ドラフト』というルールがある以上、通用しません(中日ドラゴンズ球団代表の中川清)」「あくまでドラフトの趣旨があるんだし、事前にはどう言うべき筋合いのもんではない。ルールを崩すわけにはいかない(南海ホークス球団代表の森本昌孝)」などと反発の声が相次いだ[12]。
11月22日、ドラフト会議が東京・九段下のホテルグランドパレスで午前11時より開催され、今回も4年前と同様にくじによって球団の指名順位を決定する変則ウェーバー方式によって行われた。予備抽選では同年の優勝チームで日本一となった阪急ブレーブスの所属するパシフィック・リーグの最下位であるクラウンライターライオンズが最初に、次いで日本シリーズで敗れた巨人が所属するセントラル・リーグの最下位である大洋ホエールズがくじを引き、両リーグの下位チームが交互に抽選を行った。その結果、クラウンが指名順位の1番目を引いて江川を指名し、巨人は2番目となって山倉和博(早稲田大学)を指名した。しかし江川は12月3日に父・二美夫、船田、船田の秘書である蓮実進と共に東京・赤坂のクラウン東京事務所を訪れ、オーナーの中村長芳に入団拒否を伝える[13]。この後に東京・平河町の船田事務所で記者会見し、正式に入団拒否を表明した[14][15]。会見であらかじめ用意していたメモを読み上げ、「指名された球団(クラウン)は関東に住む私には馴染みの薄かったこと、球団が遠隔地(福岡県)であるため、私の関係者が私のプレーを見られないという意見も多かった。今まで私は関係者の多大な援助を受けて育ってきたので、無視することが出来なかった」と語った[15]。
江川、作新学院へ戻る~野球留学へ
12月5日、クラウン渉外部長の青木一三が早朝に船田事務所へ連絡し、応対した蓮実に会談を申し入れるも予定が詰まっているとして拒否される[16]。9日には渡米していた中村が帰国し、赤坂のクラウン東京事務所で青木らと協議して江川側と交渉を試みることを確認、決定する[17]。中村は12日の午前に船田事務所を訪ねるも船田は不在で、応対した蓮実に船田との会談に協力するよう求めるが、同日夕方に蓮実から「3日に入団拒否を伝えたので、今後改めてお会いすることは無いと思う」という船田の意向を伝えられ、同時に作新学院側が10日の理事会で江川を同校へ迎え入れることに決まったことも明かした[18]。諦めきれない中村は翌日正午に再び船田事務所を訪問するも船田は不在で、蓮実からも面会を拒否される。秘書の大島孝が報道陣に対して「もう船田先生は会われませんよ。何度来られても同じです。船田先生に意向を伝えることも無いでしょうし、こちらからも連絡しません」と説明した[19]。中村は15日午前10時に三度船田事務所を訪問するが今度は秘書を含めて全員が不在で、誰にも会うことが出来なかった[20]。
なお、江川は現役引退後のインタビューで巨人でなくとも関東のセ・リーグ球団(ヤクルトスワローズ、大洋ホエールズ)からの指名であれば入団するつもりだったと語っている。その理由として巨人との対戦機会が多いことに加え、当時交際中だった後の妻が東京在住のために遠距離恋愛を避けたい点を考慮し、「首都圏のセ・リーグ球団なら」との思いを固めていたことを語っていた[21]。それに対してクラウンは福岡県福岡市を本拠地とするパ・リーグ球団のため、江川が望む条件とは大きくかけ離れていた。
クラウンへの入団を拒否した江川は一年間を“浪人”することを決めた。江川家ではこの期間中の過ごし方について話し合いが行われ、社会人野球では入社から2年間在籍しなければドラフト会議での指名対象に挙がらず、2年は長すぎるとして選択肢から外れた[22]。江川は作新学院高等学校の職員となる一方で野球留学として渡米することを選んだ。船田事務所を通じて南カリフォルニア大学の野球部と交渉し、同大学で練習生として参加することが認められた[23]。野球部監督のロッド・デドーはアメリカにおけるアマチュア野球界の指導的地位にあり、トム・シーバーなど名投手の育成には定評があり、日米の大学野球を通じて江川とも面識があった[23]。
1978年(昭和53年)3月に法政大学を卒業した江川は4月に渡米し、野球留学を開始した。規定によって公式戦への登板は不可能だが、オープン戦での登板や練習に参加してトレーニングを積むこととなった。
1978年オフの選手契約
クラウンの身売り
1978年(昭和53年)10月12日、クラウンライター・ライオンズの運営会社である福岡野球は、国土計画へ球団の経営権を譲渡して球団名を「西武ライオンズ」へ改め、本拠地も福岡県の平和台野球場から、同社が当時建設中だった埼玉県所沢市の新球場へ移転することを発表した。11月12日には球団社長へ新たに就任した宮内巌(西武グループ総帥の堤義明の番頭格)が渡米して江川と入団交渉を行うが、江川の翻意は無かった。西武は11月20日に東京・池袋の球団事務所で17時より記者会見し、宮内は「江川君とはロサンゼルスで直接交渉したが、巨人入りの意思が想像以上に強固なものと感じ取った」として江川の獲得を断念したことを発表した[24]。そして同日24時をもって、西武における江川との交渉権が消滅した。
空白の一日
| 1978年 11月 | ||||||
| 日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
| 1 | 2 | 3 | 4 | |||
| 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 |
| 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 |
| 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 |
| 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | ||
| 22日がドラフト会議。江川の契約は21日に行われた。 | ||||||
当時の野球協約において「ドラフト会議で交渉権を得た球団がその選手と交渉出来るのは、翌年のドラフト会議の前々日まで」とされていた。これは会議前日まで交渉を継続した場合、その交渉地が遠隔だった場合に気候の変動などで球団関係者が出席できずドラフト会議の進行に支障をきたす恐れがあるため、ドラフト会議の準備期間(閉鎖日)として設けられたものであった[25]。1978年(昭和53年)における交渉閉鎖日は11月20日で、当時のドラフト会議において対象となる学生は「日本の中学校、高等学校、大学に在学している者」であり、それ以外のドラフト対象としては中退者や社会人野球の選手が挙げられたが、江川は大学卒業後に社会人野球へ進まなかったため、野球協約の文言上では指名対象外の選手だった。日本野球機構ではドラフト対象選手の範囲を拡大させるため、同年7月31日の改正によって対象選手を「日本の中学校、高等学校、大学に在学した経験のある者」へ変更しており、江川のようにいわゆる「浪人中」の選手もドラフト会議の対象者に含まれることとなったが、この新しい協約は「次回ドラフト会議当日から発効する」こととなっていた。そのため、江川は後にも先にも「ドラフト会議前日にあたる『1978年11月21日』の一日だけがドラフト対象規定の枠外にある」と解釈しうる状況だった。江川は留学先のロサンゼルスで22日のドラフト会議の結果を聞き(会議終了直後に現地の日本料理店にて記者会見を行う予定も組まれていた[26][27])、26日頃の帰国を予定していた。しかし17日になって蓮実から11月20日までに帰国するよう指示を受け、江川は20日に成田空港へ到着する日本航空機で帰国(これに伴い記者会見の予定をキャンセルしたため、マスコミにも江川が急遽帰国したことが知られることになった[28])、蓮実の車に乗り込んで東京・南青山の船田邸へ向かい、報告を済ませてから船田邸で一晩を過ごした。
翌日早朝、江川は契約の根拠について蓮実から説明を受けてこれを承諾した[29]。同時に巨人の球団関係者が午前9時に東京・平河町の全共連ビルで江川と面会し、契約書に調印してから午前9時30分より6階「オークルーム」でオーナーの正力亨、球団代表の長谷川実雄、船田、江川と記者会見を行い、江川と選手契約を結んだことを表明した[30]。正力と船田が経緯を説明してから江川が口を開き、「子供の頃からの夢が叶い、大変嬉しく思っています」と語った[31]。巨人がこの日に江川と選手契約を結んだことと、蓮実が江川に対して11月20日までの帰国を指示した理由は前述のように前日に西武の交渉権が消滅しており、「日本の中学校、高等学校、大学に在学した『経験のある者』」という対象選手の範囲の変更があったこと、さらにそれらの選手をドラフト対象とするのは会議が行われる11月22日以降であると巨人が解釈したためで、11月21日の時点で江川はドラフト会議の対象外選手であるというのである。その頃、巨人の球団職員が東京・銀座にあるセントラル・リーグの連盟事務所を訪れて統一契約書を提出したが、事務局長の金子家基は「コミッショナーの裁断を待って…」としてひと先ず預かる形で受け取った[32]。
プロ野球実行委員会が午後0時2分から東京・九段下のホテルグランドパレスで行われたが、元々は翌日のドラフト会議のための打ち合わせだったが[33]、打ち合わせ終了後に巨人と江川の契約について討議を行った。巨人からは長谷川が出席して契約の正当性を主張したが、他の11球団から「野球協約の精神に反する」「法の盲点を狙うのはスポーツマンシップに反するだけでなく、球界の秩序を乱す」との意見が続出し、議論は5時間近くに及んだ[34]。18時20分からはセ・リーグ会長の鈴木龍二とパシフィック・リーグ会長の工藤信一良、コミッショナー事務局長の井原敦、長谷川が揃って記者会見に登場し、鈴木は実行委員会での討議の結果として巨人の江川の選手登録申請は「野球協約上、該当しない」として却下することを表明[35]、長谷川は東京地裁へ江川の地位保全のための仮処分申請を行うことを明らかにした[36]。巨人はさらに20時45分から東京・大手町の球団事務所で記者会見し、正力が「巨人軍は重大決意のもと、明日のドラフト会議には出席しません」「巨人軍は江川君の問題について、コミッショナー、リーグ会長に異議の申し立てを行います」との声明文を発表した[37]。なお、長谷川が明らかにした仮処分の申請については申請までに時間がかかるとして、事態の推移を見て申請すると説明した[36]。
江川、三度目のドラフト会議
11月22日午前11時、ドラフト会議が東京・九段下のホテルグランドパレス内にある「ダイヤモンド・ルーム」で開催される。巨人は開始直前に長谷川が金子、鈴木に対して江川の支配下選手登録申請の却下に対する異議申し立ての文書を手渡し、前日の正力の記者会見の通りドラフト会議を欠席した。これによって史上初めて11球団による開催となった。
ドラフト会議は今回の開催より方式の変更が行われた。従来までの変則ウェーバー方式(予備抽選を行って指名順を決定する)から、まず最初に全球団が1巡目選択希望選手を入札し、途中で一人の選手に複数球団が指名しても中断せず、全球団の入札の終了を待ってから重複球団のみ改めて抽選を行って交渉権を獲得する球団を決める方式となった。江川には南海、阪神、ロッテ、近鉄が1巡目で指名し、抽選の結果、阪神が交渉権を獲得した[38]。江川との交渉権が喪失した西武は森繁和(住友金属)を単独で1位指名し、交渉権を獲得した。ドラフト会議終了後に金子は「巨人は十分に反省しなければならない。21日の実行委員会でも(巨人を)支持した球団は一つも無かったではないか。自分たちは何をしたのかを冷静に考えるべきだ」と語り、巨人を批判した[39]。オーナーの正力は15時30分より記者会見を開き、「野球協約では、ドラフト会議は全球団の出席を不可欠の要因としている。今回は効力が発生せず無効である」として、金子宛に提訴状を出したと発表した[39]。
江川との交渉権を獲得した阪神は、ドラフト会議が終了すると直ちに球団代表の岡崎義人、スカウトの小林治彦、田丸仁が都内にある船田事務所を訪問した。岡崎が玄関から呼びかけたものの「お会い出来ません」「(秘書の)蓮実は出かけております」との返答があったのみで、代表の船田はおろか秘書の蓮実らにも会えなかった。更に江川本人はこの時、東京・新宿にある当時交際していた女性の実家でドラフト会議のテレビ中継を見ていたためやはり不在で[40]、阪神サイドは誰とも面会できず、僅か2分足らずで引き上げた[41]。夕方、今度は田丸が単独で栃木県小山市にある江川の自宅へ電話で挨拶を試みたが、母・美代子から「巨人の江川ですのでお会い出来ません」と返答した[41]。23日には江川の実家を訪問する予定だったが交渉が難航するとみた阪神側は当日になって訪問を中止し、冷却期間を置いてその後に江川との交渉を行うことを決めた[42]。
コミッショナーの「強い要望」

12月21日、金子は「ドラフト会議の欠席は巨人が勝手に行ったこと」として会議の結果は有効とし、その上で「江川と巨人による入団契約は認めない」「阪神の江川に対する交渉権獲得を認める」裁定を発表した。しかし金子は翌日のプロ野球実行委員会になって一転、「江川君は一度、阪神と入団契約を交わしてもらい、その直後に巨人とトレードさせる形での解決を望む」という強い要望を提示した。その理由として、江川獲得の正当性やセ・リーグ脱退を主張する巨人に対する批判が強まって今後のプロ野球の運営に支障をきたす可能性が出たことと、江川獲得という巨人最大の目的を達成させることで問題の解決を図ろうとするものだった。野球協約では、新人選手の公式戦開幕前の移籍は禁止されているが金子はそれを十分承知の上でのトレードによる解決を提案した。
この規定は荒川堯のプロ入りを巡るトラブルを教訓に野球協約が改正されたもので、改正当初は初年度の移籍が禁止されていたが同年より「公式戦開幕前」に緩和された。さらに江川事件の発生前に改正されることが決定されており、江川事件とは全く関係の無い偶然のタイミングだった。この強い要望を公表した際に金子は「各球団の実行委員もほぼ同意してくれた」と語っているが、あまりにも朝令暮改な要望に阪神だけは強く反発し、球団社長の小津正次郎も「たとえ交換相手に王貞治を用意されたとしても(江川は)出さない」との発言を繰り返した。一方、巨人は前述のコミッショナーの裁定を受けて、12月27日に「空白の一日」による江川との契約を解除、これによって阪神が正式に江川との入団交渉を開始した。江川は1979年(昭和54年)1月に阪神との入団交渉に入ったが、獲得を希望する阪神に対して江川はトレードの確約を主張するなど、まとまらなかった。
巨人エースとの電撃トレード
ところが、交渉期限が消滅する直前の1979年(昭和54年)1月31日、巨人と阪神は、阪神が江川と一度入団契約を交わし、同日中に小林繁とトレードすることを発表した。阪神が最終的に金子の要望を受け入れることとなった[43]。これは巨人オーナーの正力が日本野球機構からの脱退も示唆したため、最悪の事態を恐れた日本テレビ放送網社長の小林与三次が小津や阪神電鉄社長の田中隆造を説得させると同時に、江川と小林の交換トレードを提案したことが背景にあった[44]。
当日早朝に江川は栃木県小山市の実家を車で出発して都内へ向かう。その頃、小津とスカウトの小林治彦が午前中に空路で東京入りし、正午に東京・銀座のセ・リーグ連盟事務所で会長の鈴木と会談したのち、小津と江川は15時から東京グランドホテルで阪神への入団交渉を行う。江川は阪神との入団交渉に合意してから記者会見し、小津は「セ・リーグの鈴木(龍二)会長が『阪神に迷惑はかけない。(金子)コミッショナーと私が責任を持つ』と仰ったので江川君との契約に踏み切った」と語った。今回の騒動に発展した原因については野球協約の不備にあるとする見解を示した[45]。小津は記者会見終了後に連盟事務所へ戻って江川の支配下選手の登録申請を行い、鈴木はこれを受理、17時にセ・リーグから「阪神・江川」が公示された。
小津はその足で東京・大手町の巨人球団事務所を訪問して、契約を結んだばかりの江川のトレード交渉に入ろうとする。江川本人は「人(交換トレードになった場合の相手)に迷惑がかかるから金銭でないと行かない」との希望を出しており、江川の父・二美夫も同様の意思を示したことで交渉は難航した[46]。そして最後には江川曰く「金銭だと思い込んで」判子を押したがこれが「交換」トレードに合意したとされ、しかもその要員が巨人のエース・小林繁となった[46]。巨人の選手らは春季キャンプ地である宮崎市へ移動するために羽田空港に集合していたが、小林は同日正午に巨人の球団関係者に呼び止められて東京・紀尾井町のホテルニューオータニへ移動、球団代表の長谷川から江川とのトレードを通達・説得され、小林は最終的に同意した。
巨人と阪神は、日付が変わった2月1日午前0時17分より東京・大手町の読売新聞本社で、巨人の長谷川、阪神の小津の両球団社長が記者会見を開き、江川と小林の交換トレードを正式に発表した[47]。江川の交換相手に選ばれた小林は午前0時40分から本社8階で記者会見を開き、「結論から言えば、阪神にお世話になる事になりました。その大きな理由は、野球が好きで、これからもずっとやっていきたいと思うからです。阪神の人たちに強く望まれて行くんだから精一杯やりたい気持ちでいっぱいです」と述べ、自らの口からも移籍を明らかにした[48]。一方の江川は正午から東京・平河町の船田事務所で記者会見を開き、開口一番「興奮しないで(記者会見を)やりましょう」と切り出してから「僕は一貫して人に迷惑を掛けないという信念でやって来たつもりだが、結果的には小林さんとのトレードという形になった。しかし、小林さんの阪神へ移籍する立派な記者会見を開いたりして非常に感謝している。いつか小林さんに追いつけるよう頑張りたい」と語った[49]。これによって江川は念願の巨人入団を果たしたが、巨人と江川は世論やマスコミからの激しいバッシングを受けた。また、「開幕前のトレードは(野球協約に違反するから)しない」と発言していながら結局は開幕前のトレードを決めた小津も強い批判を受けることとなった。球界の内外から江川と小林のトレードには批判が高まり、協約に則ってトレードは開幕後に行うべきとの反対意見も出た。2月8日のプロ野球実行委員会において、金子は自身が出した「強い要望」を全面的に撤回し、江川と小林のトレードについても協約違反のために白紙撤回すると同時に、小林の阪神移籍は認め、江川の移籍は開幕日まで凍結することを決めた。巨人からは長谷川が出席して一連の騒動を謝罪し、江川の公式戦出場は開幕から2ヶ月間自粛することを表明した。金子は騒動の責任を取ってコミッショナーを辞任したが、後任に相応しい人物を聞かれた際には「法曹関係者がいい」と返答した[50]。
2月10日、セ・リーグは巨人球団代表の長谷川に対して戒告と制裁金10万円、阪神球団社長の小津に対して注意の処分を科したと発表した[51]。
その後
巨人移籍後の江川
公式戦への出場を開幕から2ヶ月間自粛することとなった江川だが春季キャンプへの参加は認められていたため、実家の栃木県小山市から巨人OBの捕手である矢沢正がトレーニングパートナーとして付き添い、トレーニングを積むこととなった。4月7日には巨人・阪神の両球団間で選手譲渡の手続きが行われ、江川の巨人入りが正式に決まった。江川の阪神における背番号は3で、この番号は巨人では永久欠番となっているため着用出来ないことから阪神における抵抗の一つと見る動きもあった。その後、6月1日に初めて一軍選手登録が行われた。当時の規定では出場選手登録の翌日から試合出場が可能だったため、登録当日である6月1日の試合に登板した小林との直接対決は実現されなかった(現在は規定が改正されて登録当日の試合出場が可能となっている)。江川は翌6月2日の阪神戦にプロ初登板。登板時には阪神側のスタンドから「KO!KO!江川」「アホ!アホ!アホの江川!(アホの坂田の替え歌)」などの散々な罵声を浴びせられながら登板するという異常事態だった。江川と小林の直接対決が実現したのは1980年(昭和55年)8月16日の後楽園球場での対決で[52]、両者が先発投手として登板した。試合は5回裏に江川が自ら決勝適時打を放つなどで5-3で巨人が勝利し、江川は完投勝利を挙げたが小林は4失点で敗戦投手となった[52]。
このように入団経緯が半ば超法規的な措置だったことで当時のチームメイトからの評価も芳しくなく、巨人へ入団して3年目の1981年に日本一の優勝旅行でハワイを訪れた際も、開催された選手の妻だけによる食事会で江川の妻は他選手の妻から「未だに釈然としない思いがある」と聞かされて泣いたという[53]。江川が巨人入りを強く望んだ大きな理由は前述のように慶応義塾大学への入学が叶わず、法政大学に行かざるを得なかったからとも言われており、1985年(昭和60年)から巨人の広報室長を務めた若林敏夫によれば、江川は若林に「僕もいつかは野球選手を辞めて、社会で仕事をしなければいけなくなる。そのためにもどうしても慶應に入っておきたかった」と話していたとされ[54]、また若林は、江川にとって「慶應」に代わるブランドが「巨人」だったと説明している[54]。
江川の引退後、本宮ひろ志が伝記漫画『実録たかされ』の取材時に当時のスポーツ新聞を「もう時間も経ったから大丈夫だろう」と江川に見せたところ、江川はトイレで嘔吐するほどの拒絶反応を示したという[55]。
阪神移籍後の小林
阪神へ移籍した小林はトレードの記者会見を終えると春季キャンプ地である高知県安芸市へ向かい、阪神タイガースの一員として挨拶を行ってから練習へ合流した。背番号は19を付けていた工藤一彦を26へ変更させてまでの小林自身の強い要望によって巨人時代と同じ19となった。巨人への未練に苛まれながらも「ジャイアンツだけには負けたくない」と思うようになり、監督のドン・ブレイザーに古巣・巨人戦に合わせて自身のローテーションを組むよう直訴し、球場入りの際には周囲に緊張感を漂わせて新聞記者が球場入りした小林を見ただけでその日の先発が伝わるなど対抗心を燃やすようになる。こうして小林は同年の巨人戦で8勝0敗と圧倒的な成績を収めて沢村賞も受賞するなど意地を見せた[52]。
小林は1999年(平成11年)発行の「元・巨人 ジャイアンツを去るということ」の中で、江川について「個人に対する恨みは無い。ただ、他人の人生を変えてしまったことは紛れもない事実です[56]。一人の人間のとった行動が、別の誰かの人生を全く違う方向に押しやってしまったわけですよ。そういうわだかまりみたいなものはやっぱりあります」「結局、価値観の違う人間なんだと思っています。自分がこうしたいという望みがある時に、それは自分の手で掴むものであって、何かを踏み台にしたり誰かを犠牲にしたりして得るものではないというのが本質的に僕の考え方。だから僕には彼が全く異質な人間としか思えない[56]」と述べた。
「和解」のCMに出演
2007年(平成19年)の秋、博報堂が黄桜のCMを手掛け、江川と小林が日本酒を飲みながら対談する企画が持ち上がった。テーマは両者の和解で[57]、事前の打ち合わせが無い対談収録がスタートした。江川は「本当に長い間、申し訳ございませんでした」と乾杯前に謝罪すると小林は「謝ることないじゃん!」と返答し、「しんどかったやろなぁ。オレもしんどかったけどな。二人ともしんどかった」と江川に語り掛けた。また今回の騒動は「他人に作られた問題であって自分達が作った問題ではない」と指摘し、「何かある度にこれ(江川事件)を持ち出される。そんな生き方はしたくない、もっと楽に生きたい」と語っている。収録後、小林は「(今回のCM出演で)ホッとする時間を作って頂けた。残りの人生が少し違ったものになるんじゃないかな」と語り、江川も「この対談で初めてお互いのわだかまりが取れた」と語っている。さらに小林は対談後、江川について以下のように語っている。
若い頃って、自分がしんどいことばかり考えているんですよ。だけど、たぶん江川も、すごくしんどかったんですよね。もしかしたらオレよりも苦しい人生を送ってきたのかもしれない。だから結末をつけてやらなきゃいけないかなって思ったね。彼のしんどさに結末をつけないと、俺も結末がつかないからね。 あと江川と話して、もう一つ解ったことがあるんだ。それは、アイツにも趣味が無い。オレにも趣味が無いように。『事故が恐いから』って週末に家族をドライブに連れていこうともしなかったんだ。オレたちには野球が全てだった。家族を犠牲にしてまで、オレたちは野球をやっていた。あいつも夢中で野球をやっていたんだなぁって実感した。 — 近藤2010、197頁。
2011年(平成23年)に巨人のヘッドコーチ人事を巡り、渡邉恒雄から「現・ヘッドコーチの岡崎郁を更迭し、江川をヘッドコーチとする」という話があったことが清武英利によって明らかにされた(清武の乱)。江川はヘッドコーチ就任要請について「正式な話は受けていない」とコメントし、名前が挙がったことは光栄であるとしつつも「入団した時に小林さんに迷惑を掛けた(江川事件)時と同様に岡崎さんに迷惑を掛けることになるので、受けるのは難しい」と要請を固辞する考えを明らかにした[58]。また、巨人監督の原辰徳はコーチ人事について「全く知らなかった。江川さんは大事な先輩なので、ご迷惑をかけてなければいいのですが」とコメントした[59][60]。
球界への影響
1977年(昭和52年)12月、江川が二度目の入団拒否を表明したことでドラフト制度のために選手が自分の所属する球団を選べず、憲法第22条第1項が定める「職業選択の自由」に反するのではないかという議論が起きた。1978年(昭和53年)2月16日には参議院法務委員会で質疑の対象になり、鈴木龍二・三原脩・川上哲治など球界関係者5人が参考人として招致された。同年3月28日のプロ野球実行委員会においてドラフト制度を再検討することを決定し、ドラフト制度審議委員会の設置を決定した。その結果、1球団の指名は4名までとし、指名が重複した場合に抽選を行い独占交渉権を決定する方式に変更された。
また、江川問題は沢村栄治賞の選考基準の変更にも影響を与えている。当時の沢村賞は賞を制定する読売新聞社からの委属で在京のマスコミ各社の運動記者クラブの部長会が選考を行っており、江川はプロ2年目の1980年(昭和55年)に16勝を挙げて最多勝のタイトルを獲得したが、同年の選考では「該当者なし」に決まり江川は落選となった。1981年(昭和56年)には20勝6敗の好成績で最多勝、最優秀防御率などの主要タイトルを多数獲得したが沢村賞には18勝12敗の西本聖が選ばれた。この選考は波紋を呼び、翌年に運動記者クラブの部長会は沢村賞の選考を辞退し、沢村賞を受賞した経験のある元プロ野球投手から構成される「沢村賞選考委員会」による選出に変更された。
企業間の関係への影響
読売グループと西武グループ
当時は江川事件に加えて松沼博久・雅之兄弟を巡る争奪戦など、読売ジャイアンツと西武ライオンズの球団間の争いは多岐に渡り、最終的に親会社である読売グループと西武鉄道グループ(現:西武グループ)の遺恨にまで発展している。
読売新聞・報知新聞、日本テレビは西武鉄道グループ・西武流通グループ(後のセゾングループ)の広告・CMを締め出しており、反対に西武鉄道も駅構内ポスター、中吊り広告から読売グループの広告を締め出している。この遺恨はプロ野球中継にも波及し、西武球場における中継では日本テレビが1979年(昭和54年)5月19日に対阪急ブレーブス戦の試合(デーゲーム)を中継している(解説:中村稔)[61]、それ以降は一部年度での散発的なものにとどまった。また、同時期に開局して当時から同球団と密接な関係にある地元局のテレビ埼玉が、当時先発の首都圏独立UHF3局(tvk・チバテレビ・群馬テレビ)で実施していた日本テレビ制作の後楽園球場における巨人主催試合のトップ&リレーナイターのネットワークを、開局直後の1979年に受けただけで翌年から打ち切る事態に発展した。ただし前述の通り、一部年度には日本テレビもデーゲームを散発的に放送したほか、その後も読売テレビ制作の近鉄・南海主催の対西武のデーゲームを、日本テレビに代わってテレビ埼玉が放送することもあった。これらの遺恨は1991年(平成3年)に読売新聞社の最高実力者だった務臺光雄が死去してから自然消滅し、これ以降は堤義明とかつてから親密である渡邉恒雄が就任し、両グループの関係は修復された。
その後、1996年オフに巨人入団を熱望していた清原和博(西武ライオンズ)がFA宣言をした際には、堤から渡邊に「獲得してやって欲しい」という旨の連絡を行っている。日本テレビも1999年に当時高卒ルーキーである松坂大輔(西武ライオンズ)の登板試合を巨人戦と二元中継したほか、2001年にはBS日テレでも1試合が放送された。2006年には義明の異母兄で、セゾングループの創業者・事件当時は西武鉄道取締役だった堤清二が日本テレビ(当時)の社外取締役に就任し[62]、清二が2013年(平成25年)11月に死去するまで務めた[63]。
三菱グループと西武グループ
太平洋クラブライオンズ球団社長(1972年)とクラウンライターライオンズ球団代表(1976年)を歴任し、1978年の西武ライオンズ発足に伴い球団代表に就任して西武の黄金時代を築いた坂井保之は自著「深層『空白の一日』」で、江川がアメリカへ野球留学に行っていた頃、後見人を務める三菱商事の現地駐在員の住居に身を寄せて西武球団からの交渉を拒絶し続けていた[64]。堤義明はこれに対して西武グループ(西武バス、西武タクシー、西武運輸)の車両を納入していた三菱自動車工業の経営陣を介して、駐在員に協力を求めるよう三菱商事本社へ掛け合ったものの、「社員個人のプライベートには干渉できない」と拒否されたため、堤は激怒したという[64]。このため、西武バスなどの西武グループ各社では1975年からバス車両を三菱自動車工業(現:三菱ふそうトラック・バス)製に統一していた[65]が、1979年度の導入分より同社製車両の購入を中止し、ほぼ全車両を日産ディーゼル工業(現:UDトラックス)製に変更した[64]。日産ディーゼルが選ばれた理由は、埼玉県上尾市に本社を置く同社がライオンズの後援企業だったためである[64]。大宮駅発着のライオンズ観戦バスの車内広告や車体広告には、他社製の車両への掲出ながら、日産ディーゼルも広告を出稿していた。すでに資本面で西武鉄道グループから独立し、西武流通グループの筆頭企業となっていた西武百貨店もこれに同調して三菱関連商品を全て店頭から撤去した[64]。
西武バスグループではその後、1998年からは並行していすゞ自動車製の車両も新製導入したため[65]、日産ディーゼル製のみの導入ではなくなった後、2003年からはコミュニティバス用に三菱ふそう製バスの導入を小型バスで再開した[65]。
堤の失脚後は、2010年にUDトラックスのバス製造事業終了を受けて三菱ふそう自体がダイムラーグループの傘下になったこともあり、2011年より三菱ふそう製の大型路線車の導入を本格的に再開した[66]。そして21世紀に入ると、西武鉄道の車両の電装品に三菱電機の製品を本格的に使用するようになった。
一方、江川側の説明としては、江川の著書『たかが江川、されど江川』を本宮ひろ志が漫画化した『実録たかされ』第2巻で、江川は当時、西武ライオンズ球団社長の宮内巌と面会して「自分の周囲の人間の顔を潰すため入団できない」と説明したという[55]。また、宮内が西武球団や堤に対して「江川に会って断られた」と言ったのか、「(江川に)会わせてもらえなかった」と言ったのかは分からないとしている[55]。
補足事項
騒動当時、同姓同名であるロシア文学者の江川卓のもとには罵倒や激励の間違い電話が大量にかかってきたという[67]。両者が後年に同姓同名の縁で対面した際、野球の江川がロシア文学の江川に迷惑が及んだことを直接謝罪している[68]。ただし、ロシア文学の江川は本名とは全く異なるペンネームで読みも「えがわ・たく」であり、その由来は「中国の揚子江で酒を飲んだら美味かろう」という思いから[69]と語っている。さらにペンネームを使用し始めた期間も1953年(昭和28年)からで[70]、偶然にもプロ野球誕生時からの巨人ファンである[70]。
1978年(昭和53年)のドラフト会議では、巨人は江川の次の指名選手として落合博満(東芝府中)を予定していた。しかし実際には巨人のドラフト会議欠席によって指名が無くなり、落合はロッテオリオンズに3巡目で指名された[71]。なお、奇しくも落合は1994年(平成6年)にFA宣言によって読売ジャイアンツへ移籍しているが、前述のように西武から清原がFA宣言で巨人へ移籍する際に清原と守備位置が重複することから「自分が幼少期からのファンで敬愛する長嶋監督が(自分と清原のどちらを起用するかで)悩む姿を見たくなかった」として自由契約を申し出て退団、日本ハムファイターズへ移籍している[72][73]。
学生時代のドラフト指名を拒否して翌年の指名のため、数年間ドラフト指名が不可能となる大学野球および社会人野球へ進まなかった選手に1969年の荒川堯(早稲田大学)、1989年の元木大介(上宮高等学校)、2011年の菅野智之(東海大学)がいる。荒川は大洋の指名を拒否して渡米したのち、交渉権の消滅直前に大洋と入団契約を交わした直後にヤクルトへ移籍している。元木はダイエーホークスの指名を拒否して渡米、菅野は北海道日本ハムファイターズからの指名を拒否して東海大学に留年したのち、両者とも翌年のドラフトで巨人から1巡目で指名されて入団している。現在の野球協約では、ドラフト会議において指名されなければ四国アイランドリーグplus・ベースボール・チャレンジ・リーグ・関西独立リーグなどの日本国内の独立リーグに参加すれば、国内で野球をしながら高卒・大卒1年目での指名は可能であるが、その指名を拒否した場合は高卒は3年目、大卒は2年目まで指名できない[74][75]。また、当時と異なり現在ではプロ志望届制度が導入されているため、学生である場合はプロ志望届が期限までに提出されなかった場合はドラフト指名そのものが不可能となっている。この制度によって、強行指名はプロ志望届制度導入以前と比較して相当に少なくなっている。
参考文献
- 江川卓、玉置肇、西村欣也、永瀬郷太郎『たかが江川されど江川』新潮社、1988年。ISBN 4-10-370301-6。※文庫版は1991年出版
- 『実録たかされ』全3巻、本宮ひろ志・江川卓著、文藝春秋、1998年
- 『深層「空白の一日」』坂井保之著、ベースボール・マガジン社新書、2008年
- 『巨人軍の最高機密(第2部)その体質と江川入団の密約』 若林敏夫著、リム出版新社、1992年
- 『豪球列伝―プロ野球不滅のヒーローたち』Sports Graphic Number編、文春文庫ビジュアル版、1986年
- 『なんと言われようとオレ流さ』 落合博満著、講談社、1986年
- 『プロ野球協約論』佐藤隆夫著、一粒社、1982年
- 『鈴木龍二回顧録』鈴木龍二著、ベースボール・マガジン社、1980年