霞が関
東京都千代田区の町名
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概要
歴史



中世から東国の名所として広く知られており、1364年(貞治3年)の『新拾遺和歌集』にも「徒らに名をのみとめてあづま路の霞の関も春ぞくれぬる」として詠まれている[5]が、これが現在の千代田区霞が関にあたるかどうかについては異論もあり、具体的には新宿区霞岳町、狭山市下広瀬、多摩市関戸などが候補として挙がっている。
江戸時代には大名屋敷が建ち並ぶ地域であった。江戸城本丸に近いにもかかわらず、上杉家や浅野家などの外様大名の屋敷もある[6]点が丸の内との違いである。明治時代になり、福岡藩屋敷に外務省が置かれたことをきっかけに、井上馨外務大臣を中心として「官庁集中計画」が持ち上がりドイツから建築家を招いて大規模な都市計画が立てられた。しかし大審院と司法省が完成した時点で予算不足のため計画は大幅に縮小された。その後、大手町から内務省と大蔵省が移転するなど、少しずつ中央官庁街の体裁が整っていった。
戦後は米軍の業務、住宅施設が存在していた時期もあったが、1951年に施行された官庁営繕法(現・官公庁施設の建設等に関する法律、昭和26年法律第181号)に基づいて官庁営繕審議会及び首都建設委員会において検討が進められ、都内に分散していた官公庁施設を霞が関周辺に集積する「中央官衙地区整備に関する計画」が公告され、霞が関を官庁街とする方針が固まる[7]。1954年には戦後初めての本格的耐火建築物として農林省霞ヶ関合同庁舎(現・中央合同庁舎第1号館)が完成。1958年2月23日には東京都が霞が関と永田町を「東京都市計画一団地 霞が関団地」として都市計画決定。1967年4月1日に住居表示が実施され[8]、一部が永田町に編入された。翌1968年に三井不動産が日本初の超高層オフィスビルである霞が関ビルディングを開業した。
町名の変遷
学区
区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2017年8月現在)[9]。なお、千代田区の中学校では学校選択制度を導入しており、区内全域から選択することが可能[10]。
- 区域 : 一丁目、二丁目、三丁目 各全域
- 小学校 : 千代田区立麹町小学校
- 中学校 : 千代田区立麹町中学校 または 千代田区立神田一橋中学校
事業所
施設






霞が関一丁目
- 中央合同庁舎第1号館 - 農林水産省・林野庁・水産庁
- 中央合同庁舎第5号館
- 中央合同庁舎第6号館
- 東京高等地方簡易裁判所合同庁舎 - 東京高等裁判所本庁・東京地方裁判所本庁(民事第8部・民事第20部・民事第21部を除く)・東京簡易裁判所(刑事)・東京第一~第六検察審査会
- 弁護士会館 - 日本弁護士連合会・日弁連法務研究財団・関東弁護士会連合会・東京弁護士会・第一東京弁護士会・第二東京弁護士会
- 経済産業省総合庁舎 - 経済産業省本省・中小企業庁・資源エネルギー庁
- 日本郵政ビル - 日本郵政株式会社・日本郵便株式会社・株式会社ゆうちょ銀行・株式会社かんぽ生命保険各社本社
- 大同生命霞が関ビル - ベトナム航空日本支社・世界知的所有権機関日本事務所
- 日土地ビル - 首都高速道路株式会社本社
霞が関二丁目
霞が関三丁目
交通
その他
関連項目
関連文献
- 斎藤長秋 編「巻之三 天璣之部 霞ヶ關舊蹟」『江戸名所図会』 2巻、有朋堂書店〈有朋堂文庫〉、1927年、25-31頁。NDLJP:1174144/17。
