池城安頼
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| 池城 安頼 | |
|---|---|
| 三司官 | |
| 任期 1611年 – 1623年 | |
| 君主 | 尚寧王 尚豊王 |
| 前任者 | 浦添朝師 |
| 後任者 | 具志頭安之 |
| 個人情報 | |
| 生誕 | 1558年 (嘉靖37年) 琉球王国 |
| 死没 | 1623年2月1日
(65歳没) (天啓3年1月2日) 明国江南 |
| 童名 | 太郎金 |
| 号 | 慶雲 |
| 唐名 | 毛 鳳儀 |
| 称号 | 親方 |
池城親方安頼(いけぐすくうぇーかたあんらい、1558年(嘉靖37年)- 1623年(天啓3年)2月1日)は16世紀後期から17世紀初期の琉球王国、第二尚氏時代、尚寧王代の政治家、三司官。また空手家として公史に記録される最初の人物で、棒術や空手術にも長じていた[1][信頼性要検証]。毛氏池城殿内の三世で新城安基の孫、池城安棟の息子である。童名は太郎金、号を慶雲といい、唐名は毛 鳳儀(もう ほうぎ)。
1592年( 万暦20年)、謝名一族が尚寧王に反乱を起こす謝名の乱が発生。尚寧王の命を受け、池城安頼は豊見城盛続、摩文仁安恒とともに乱を鎮圧した。その功績が称えられ、紫冠(親方位)となった。
1609年、島津氏の琉球侵攻の際に摂政の具志頭王子朝盛(尚宏)とともに親見世で薩摩と和平交渉を行ったが、和平案は拒否された。尚寧王の降伏後、尚寧王および多くの高官らとともに薩摩軍により日本に連行された。
1610年、明国との朝貢継続のために薩摩の命で金応魁とともに渡唐したが、1611年に尚寧王が薩摩によって釈放されるまで、明国は琉球からの貢納を拒否した。
1623年、蔡堅とともに尚豊王の即位のため中国に派遣され、5年に一度朝貢する許可を求めた。安頼は帰国途中に重病を患い、江南で亡くなった。
家族
- 父 - 毛廉・池城親方安棟
- 母 - 真牛(号・瑞蓮。封徳新・我那覇親方助元の長女)
- 室 - 真牛金(葛叢生・越来親雲上秀政の娘)
- 長女 - 真牛金(号・雪嶺)
- 長男 - 毛時耀・池城親方安幹
- 妾 - 真牛(中城間切安谷屋村大城大屋子の娘)
- 次男 - 毛錫穎・池城親方安続
- 次女 - 真鍋(号・茡屋。毛氏又吉親雲上盛政に嫁ぐ)
- 妾:牛(号・秋林。西原間切幸地村熱田大屋子の娘)
- 三男 - 毛時翹・沢岻親方安則
- 繼室 - 望月按司(号・月岑。尚悦・羽地王子朝武の娘)
- 四男 - 湧稲国親方安条