沢岻盛里

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沢岻親方 盛里(たくしうぇーかたせいり、1526年9月24日嘉靖5年8月18日)没)は15世紀末から16世紀初頭の琉球王国第二尚氏時代初期の尚真王代の政治家、三司官豊見城盛親の三男、護佐丸盛春の孫に当たり、毛氏上里殿内の系祖である。唐名は毛 文英(もう ぶんえい)、童名は達魯加禰(たろかね、樽金)、尚清王の名付け親として別名、沢岻太郎名付け(たくし たらーなずけ)とも呼ばれる。

沢岻盛里は正徳年間に三司官を努め、国王をよく支えたという。また浦添間切沢岻村脇地頭であった。

1522年嘉靖元年)に嘉靖帝慶賀使として明国に渡った際、尚真王の許可なしに国費で鳳凰轎と吐水龍頭を購入した。

帰国後、高級品を許可なく購入したということで周辺からの批判があり、しばらく港に留め置かれていたが、尚真王は沢岻親方が購入したものを気に入ったことで許され、それのみならず沢岻親方の生存中に墓地を与えた。墓の前面上の石碑は「王舅達魯加禰国柱大人寿蔵乃銘(おうきゅうたろかねこくちゅうだいじんじゅぞうのめい)」といい、天王寺の瑞興が書いたもので、沢岻親方が墓を与えられた経緯が記されている。

沢岻盛里の墓は現在、第2の入り口と墓庭が残っているが、以前はその前(現在、住宅地)に第1の入り口と墓庭があり、玉陵に似たつくりになっていた。墓の周囲の石垣は、琉球石灰岩相方積み(亀甲乱積み)にし、墓の前面は布積み(豆腐積み)にされ、屋根の軒には垂木が彫りだされ、石造りでありながら木造のように見せている。墓の内部は、まずシルヒラシの部屋があり、その奥に第2室があり、石棺が3基並んでいる。さらにその奥は3つの小さな部屋が並び、それらの部屋の石扉を開けると、そこは骨をまとめて葬る所(合葬納骨室)となっている。このように凝ったつくりの内部や、特異な外観もほかでは見ることのできない貴重な墓となっている[1]。沢岻親方の次女は尚清王の長男、尚禎に嫁ぎ、豊見城按司加那志と号された。

家族

引用

参考文献

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