沢岻盛里
From Wikipedia, the free encyclopedia
沢岻盛里は正徳年間に三司官を努め、国王をよく支えたという。また浦添間切沢岻村の脇地頭であった。
1522年(嘉靖元年)に嘉靖帝の慶賀使として明国に渡った際、尚真王の許可なしに国費で鳳凰轎と吐水龍頭を購入した。
帰国後、高級品を許可なく購入したということで周辺からの批判があり、しばらく港に留め置かれていたが、尚真王は沢岻親方が購入したものを気に入ったことで許され、それのみならず沢岻親方の生存中に墓地を与えた。墓の前面上の石碑は「王舅達魯加禰国柱大人寿蔵乃銘(おうきゅうたろかねこくちゅうだいじんじゅぞうのめい)」といい、天王寺の瑞興が書いたもので、沢岻親方が墓を与えられた経緯が記されている。
沢岻盛里の墓は現在、第2の入り口と墓庭が残っているが、以前はその前(現在、住宅地)に第1の入り口と墓庭があり、玉陵に似たつくりになっていた。墓の周囲の石垣は、琉球石灰岩を相方積み(亀甲乱積み)にし、墓の前面は布積み(豆腐積み)にされ、屋根の軒には垂木が彫りだされ、石造りでありながら木造のように見せている。墓の内部は、まずシルヒラシの部屋があり、その奥に第2室があり、石棺が3基並んでいる。さらにその奥は3つの小さな部屋が並び、それらの部屋の石扉を開けると、そこは骨をまとめて葬る所(合葬納骨室)となっている。このように凝ったつくりの内部や、特異な外観もほかでは見ることのできない貴重な墓となっている[1]。沢岻親方の次女は尚清王の長男、尚禎に嫁ぎ、豊見城按司加那志と号された。