河野亮

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国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1971-05-03) 1971年5月3日(54歳)
身長
体重
181 cm
92 kg
河野 亮
楽天二軍打撃コーチ時代
(2016年3月4日、さいたま市営浦和球場にて)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 神奈川県横浜市磯子区
生年月日 (1971-05-03) 1971年5月3日(54歳)
身長
体重
181 cm
92 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手外野手
プロ入り 1989年 ドラフト外
初出場 1993年4月20日
最終出場 2000年10月11日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

河野 亮(かわの りょう、1971年5月3日 - )は、神奈川県横浜市[1]磯子区出身の元プロ野球選手内野手外野手)。

プロ入り前

小学3年の時に地元の少年野球チームに入り、投手で4番打者だった[1]

中学は地元の横浜市立洋光台第二中学校野球部で主将を務める。中学の同級生にドロンズ大島がいる。

高校は神奈川県日大藤沢高に進学し、鈴木博識監督の指導を受けた。3年夏は神奈川県大会決勝まで勝ち残るが、横浜高校に延長11回の末に敗れ準優勝[1]。惜しくも甲子園を逃した。横浜スタジアムで特大の本塁打を放つ[2]

現役時代

1989年オフにドラフト外ヤクルトスワローズに入団[1]。入団当時から「大食いの河野」の異名を持ち、その手のエピソードを多数持つ。

1991年マイナーリーグA級のサリナス・スパーズ英語版に野球留学した。

1992年はファームでは主力として結果を残し、イースタンリーグ日刊スポーツ新聞社選定努力賞・8月月間MVPを受賞した。

1993年は待ちに待った一軍公式戦へ初出場する。4月20日、対阪神タイガース4回戦(明治神宮野球場)7回裏に松元秀一郎の代打で出場し、服部裕昭からプロ入り初出場・初安打を記録。この年一軍で4試合出場した。

1994年は捕手にも挑戦したが一軍の厚い壁に阻まれ、一軍で6試合出場のみで無安打に終わる。

1995年はイースタンで19本塁打、82打点を記録し2冠となる[1]。通算打点82はイースタンリーグで当時の新記録となり特別表彰された。ファームでは毎年のように結果を残し続け1軍定着が大いに期待されたが、時代は古田敦也を中心に一塁手にはオマリー池山隆寛飯田哲也等ヤクルト黄金期でもあり層の厚い一軍メンバーの中に中々入り込む余地がなかった。

オフの11月に佐藤真一田畑一也との交換トレード柳田聖人と共に福岡ダイエーホークスへ移籍[1]

1996年は福岡ダイエーホークス移籍初年度に王貞治監督の若手を積極的に起用する方針の元、本格的に1軍で起用されるようになり、出場数、同時にスタメン起用も増えた。長打力が魅力で三振数は多かったが、一時はレギュラー格として期待され、主にDHや6・7番で起用された。最終的にチームは最下位だったが、一軍でキャリアハイの67試合に出場。打率.254・7本塁打・21打点の成績を残し翌年以降の飛躍が大いに期待された。

1997年も前年同様、右の長距離砲として期待されたが粗さが目立ち、47試合出場、打率.218・7本塁打・11打点と本塁打数こそ前年と同数だったが低打率に終わり、レギュラー獲得までには至らなかった。

1998年は今年こそレギュラー奪取かと期待されたが、主に代打の切り札としての起用が中心だった。そのせいか持ち前の長打力を発揮できず、最終的に41試合出場、打率.255・本塁打1・打点7に終わった。

1999年はシーズン途中の6月に鳥越裕介とのトレードで中日ドラゴンズへ移籍[1]。同年、古巣ダイエーとの日本シリーズでは山崎武司が骨折し出場不可能になったため「中日の秘密兵器」と一部スポーツ紙が取り上げたこともあったが、シーズンでは3試合の出場で本塁打1本のみで終わった。

同年11月に鈴木平(ヤクルト時代に同僚だった)との交換トレードで岸川登俊と共にオリックス・ブルーウェーブへ移籍[1]

2001年オフに戦力外通告を受け、現役を引退した。

現役引退後

現役引退後はスポーツ用品販売会社に勤務し、店長職を務めた[3]

2005年松井優典から誘われて当時創設1年目となる東北楽天ゴールデンイーグルスの二軍総務に就任した。

2010年秋からは楽天の監督に就任した星野仙一の担当マネージャーを担当し、仙台では球場送迎用運転手も務めた[4][5]

2012年11月15日からはチーム統括本部 本部長補佐 監督担当部長に就任[6]2013年7月には新設されたファンリレーション室の室長も兼務[7]2014年からはチーム統括本部 監督担当部長兼チーム統括本部管理部部長に就任した[8]

2015年より、二軍打撃コーチとして現場復帰することが発表された[4][9]。背番号は962016年は二軍チーフ打撃コーチに昇格したが[10]2017年2018年は再び二軍打撃コーチを務め[11][12]、2018年10月5日に翌年の契約しないと通告された[13]

10月19日、ダイエー時代に同僚だった井口資仁が監督を務める千葉ロッテマリーンズの一軍打撃コーチに2019年から就任することが発表された[14]。背番号は変わらず96。ダイエー時代にトレードの相手となった鳥越とはお互いにコーチとしてチームメイトとなった。井口監督、鳥越二軍監督の退任に伴い、2022年をもって退団[15]。2022年はチーム打率.231、97本塁打はともにリーグ5位と、貧打に苦しんだ[16]

2023年より、横浜DeNAベイスターズのアマチュアスカウトに就任した[17]東北地方埼玉県を担当する[18]

選手としての特徴

長打力が売りで、二軍ではイースタン、ウエスタン両リーグでそれぞれ本塁打王に輝いた経歴がある(1995年と1999年[19][20])。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1993 ヤクルト 4440100010010000010.250.250.250.500
1994 6870000000000000141.000.125.000.125
1996 ダイエー 672071852147707752400321403474.254.314.405.719
1997 57142133112940754240001602284.218.261.406.667
1998 4161517132112040001801113.255.361.392.753
1999 中日 31082200153001010020.250.333.625.958
2000 オリックス 71091100143000000130.111.200.444.644
通算:7年 18544239742931311715958014429089612.234.297.401.697

年度別守備成績

年度試合企図数許盗塁盗塁刺阻止率
19941000-
通算 1000-

記録

初記録

背番号

  • 61(1990年 - 1995年)
  • 35(1996年 - 1999年途中)
  • 41(1999年途中 - 同年終了)
  • 24(2000年 - 2001年)
  • 96(2015年 - 2022年)

脚注

関連項目

外部リンク

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