法家
諸子百家の一つ
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戦国時代
秦代
中国統一を果たした始皇帝も、宰相として李斯を登用し、法家思想による統治を実施した。しかしながら、秦において法が厳格すぎたがゆえのエピソードとして以下のものがある。
- 新法の改革をした商鞅は反商鞅派によって王に讒訴されて謀反の罪を着せられた際には、都から逃亡して途中で宿に泊まろうとしたが、宿の亭主は商鞅である事を知らず「商鞅さまの厳命により、旅券を持たないお方はお泊めてしてはいけない法律という事になっております」と断られた(商鞅は逃亡を続けるも秦に捕まって殺害された)。
- 燕の使者である荊軻が隠していた匕首で秦王の政(後の始皇帝)を殿上で暗殺しようとした際には、秦王は慌てて腰の剣が抜けない中で匕首を持った荊軻に追い回されていたが、臣下が秦王の殿上に武器を持って上がることは法により死罪とされていたため対応に難儀した(最終的には御殿医が荊軻へ薬箱を投げつけ、怯んだ隙に秦王が腰の剣を抜き、荊軻を斬り殺した)。
- 辺境守備のために徴発された農民兵900名は天候悪化のために期日までの到着が見込めなかったが、いかなる理由があろうとも期日までに到着しなければ斬首であったと史記に書かれている(これが秦を滅ぼす戦乱のきっかけとなる陳勝・呉広の乱の要因となった)。
20世紀以降、秦の法制にまつわる新出文献が複数発見された。例えば、1975年の『睡虎地秦簡』、2002年の『里耶秦簡』などがある。
漢代以降
法の字義
「法」字の字義について、中国法学者の宇田川幸則は以下のように説明している。
現在、私たちが使う法という漢字は、かつては灋(水・廌・去)と表記されていた。『説文解字』によれば、灋とは真実を知る廌(ち・獬豸と呼ばれる中国の伝説上の一角獣)の判断に基づいて争いを公平(水の平なことに由来)に解決することであり、正しくない者を追放することであるという。他方水は廌に「不直」と判定された者を放逐するための手段との理解に立つ説や、正邪を見分ける廌がいなくなると治安が乱れることから、廌が立ち去らないように水堀で囲んだことに由来するとの説などがある。しかし、いずれの説も灋とは廌が正邪を見分けることによって紛争が解決され、それにより秩序が維持され安定がもたらされるという理解に立つ点は共通しており、この点は法家思想の基本的な考え方につながっている[2]。