流行神
突如として信仰を集める神や仏
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定義
学術用語としての流行神は宮田登により定義づけられた[7]。それによると、流行神とは突然流行を開始して熱狂的な信仰を集め、その後急速に信仰を失う神や仏のことである[4]。厳密には「流行神仏」であるが、その信仰内容に神仏で区別する必要性が感じられないと宮田は述べており[8]、仏を含めて「流行神」と呼称される[9][注釈 1]。また、神仏以外で信仰の対象になったものも流行神と呼ばれる[11]。
宮田による定義は信仰の消滅を伴うことから、過去の信仰現象しか流行神の対象とはならない[12]。それに対し鈴木岩弓は、日常語として使われる「流行神さん」が「すたれ」よりも「はやり」に着目して使用されていることを指摘し、流行神研究においては流行りの最中にある現象も実態調査すべきであるとする[12]。そのうえで、鈴木は流行神の定義を「ことさら霊威ある存在と観念され、以前よりも、あるいは同時代の他の神仏よりも、熱狂的な多くの人々から信仰対象として選択されている神仏」としている[6]。
この他、流行病や禍厄をもたらす神(疫病神や疱瘡神など[13])を流行神とする定義もみられるが[14][注釈 2]、鈴木岩弓は多くの研究者が宮田登による定義を踏襲してきたと指摘し、宮田によるそれがより汎用性の高い定義であると述べている[6]。
表記については、流行神の他、流行り神、はやり神、ハヤリ神が用いられる[11]。文政6年(1823年)に著された[16]『享和雑記』では、「時花神」と書いてハヤリ神と読まれている[17]。
流行神の実例と様態
発生の仕方
宮田登によると、流行神の発生の仕方には繰り返される要素があるという[18]。まず初めに奇蹟または奇瑞のようなものが現れる[18]。これは夢の中での託宣や、神像・仏像が土の中から掘り出されることなどである[18]。次にそれによる祟りがあるなどして、神の霊験が説かれるようになる[18]。さらに、その霊験を説く縁起が誇大化して宣伝されたり、神がかりによって霊験の印象が強められたりして、流行神へと発展する[19]。
神像が土中から現れた例として、翁稲荷がある[20]。宝暦(1751–1764年)の頃、日本橋青物町で道の補修が行われた際に、地中から稲を荷う老翁の像が掘り出された[20]。この像は翁稲荷と呼ばれ、小さな祠で祀られていたが、ある時その近くで小便をした男がいた[20]。この男は周りの者が詫びるよう言うのも聞かずに、かえって神を罵ったという[20]。その後、火災があって、この男が重傷を負ったところ、この男に神がかりがあり、神がこの男を罰しようとしているとの内容を叫び出す[20]。やがてこの男は死亡し、彼の仲間たちはお詫びのため社地を清めて大きな石の水盥を奉納した[20]。このことを知った人々が多数参詣するようになり、祠も立派なものへと改修された[20]。
夢の中で託宣があった例としては、兵庫県洲本市鮎屋にある五瀬明神がある[21]。五瀬明神はこの地で死んだ戦国時代の武将の霊を鎮めるために祀ったものとされるが、寛政10年(1798年)、突然多数の参詣者が訪れるようになり、流行神となった[21]。きっかけは、ある病人の夢枕に甲冑を身に着けた武士が現れ、五瀬に詣れば病が治るとお告げしたことだという[21]。この病人が実際に詣ったところたちまち病が治り、この話が広まったことで多数の参詣者が来るようになった[21]。
流行神の出現の仕方としては、天空飛来・海上漂着・土中出現の3種がある[18]。天空飛来型は、天空を飛来して特定の地に出現し祀られるもので、伊勢信仰の飛神明や江戸で流行った大杉明神などがある[18]。海上漂着型は海上から漂着した神体や仏像が祀られるものである[18]。
宗教家の役割
流行神の出現に際しては、民間宗教家がかなりの役割を担っていたと宮田登は述べる[22]。
宝暦6年(1756年)、下総国古河で御手洗の石を掘ると弘法大師の霊水が湧き出した[23]。この水に触れた盲人は目が見えるようになるなどといわれ、また手拭いを浸すと梵字が現れるなどの奇蹟があるとのことで、参詣者が殺到した[23]。そのきっかけは、ある出家(旅僧)がこの地を掘ってみよと言ったことだという[23]。
また、昭和に入ってから類似の事例があった[24]。広島市の草津において、旅僧が水が出ると伝えた場所を老婆が掘ると実際に水が出た[24]。その水で老婆の病気が治ったため、その場所には大きな石が祀られるようになり、参詣者が多数訪れるようになった[24]。
近世の寺院では境内に祀られた神仏が霊験を付加され、信仰を集めることがあった[25]。例えば、駒込の常徳寺にある身代わり地蔵には、享保11年(1726年)頃に重病となったこの寺の住職が地蔵のおかげで全快し、代わりに地蔵の片目が腫れたという縁起がある[26]。これにより人々の信仰を集めたが、縁起作成に当たり寺院の作為があった様子が見て取れる[26]。このように寺院が背景となって宣伝が行われ、流行神となるケースが見られた[25]。
なお、現代の流行神を検討した黄緑萍は、1998年(平成10年)に長野県飯田市に建立された貧乏神神社や、2001年(平成13年)以降に広められた仙台幸子、2009年(平成21年)からインターネット上で見られた、中国の受験生を対象とする「受験の神」を、宗教者の関与しない流行神と述べ、宮田登が流行神の特徴として挙げた宗教者の関与は必ずしもあるわけではないとしている[27]。
流行神の系譜
宮田登は、流行神について「①御霊(ごりょう)→和霊(にぎみたま)、②厄神→福神という系譜にとらえ直している」と述べている[28]。宮田によると、初め怨念や祟りを抱く悪神として発生したものが、しばらくして災厄の観念が弱まると、福神の傾向を帯びるようになる[28]。この段階で神仏の流行状況(流行神)になっているという[28]。伊藤唯真も同様に、祟り神から祈祷の対象となる霊異霊妙な神格への転換がみられることが流行神の特徴であると述べる[29]。
古代においては、恨みを持って死に、祟りをなすようになった人間霊である御霊が疫病をもたらすと考えられた[30]。貞観5年(863年)、流行性感冒の大流行を受けて、その原因となる御霊を鎮めるため御霊会が行われている(『三代実録』)[31]。『今昔物語』には、貞観8年(866年)の応天門の変で首謀者とされて死んだ伴大納言善男の御霊についての記述がある[32]。それによると、咳病が流行したある年、膳部を務める男の前に伴大納言が現れ、自分が咳病を流行させていると告げた後に消えた[32]。その後、人々は伴大納言が「行疫流行神」であると知ったという[32]。こうした御霊が人々に畏怖され鎮め祀られることで、霊験ある流行神へと転じていった[33]。
「御霊→和霊」の系譜の例として、四国宇和島の和霊信仰がある[34]。これは宇和島藩の家老・山家清兵衛を祭神とするもので、清兵衛は元和6年(1620年)にお家騒動の首謀者の一人として非業の死を遂げたとされる人物である[34]。清兵衛の死後、宇和島藩では大地震や大旱魃などの天変地異が立て続けに起き、さらには藩主・伊達秀宗の子の早世や家老・桜田玄蕃の死といった不幸にも見舞われた[34]。これらは清兵衛の御霊が原因とされ、死後3、40年ほど経ったころ、清兵衛は小祠に祀られることになった[34]。その後、吉田神道の関与の下で、藩主により山家和霊神社と号され、寛文年間(1661–1673年)には、この地の氏神的存在である八面大荒神の下に若宮として祀られた[34]。こうした変遷は、祟りが鎮まらなかったことのあらわれと考えられる[34]。元禄13年(1700年)、吉田家から明神号を与えられており、このころ御霊が落ち着いたとされる[34]。享保13年(1728年)に大明神となり、宝暦10年(1760年)には八面荒神は和霊大明神の末社という扱いになっていた[34]。和霊大明神は八面荒神に代わって氏神的な守護神としての機能を有するようになっているが、これは和霊という名前の通り、荒々しい御霊から和霊に変化した結果であると見なすことができる[34]。和霊神社は、18世紀中頃に民衆の信仰を集める流行神になり、現代においても主に漁業神として信仰を受けている[34]。
近世には、初めから和霊として扱われた流行神もあった[35]。文化2年(1805年)に武蔵国川崎の鶴見川川端で発生した流行神は、川浚いの際に出てきた大量の人骨を葬った塚や卒塔婆へ、近在から夥しい数の参詣者が訪れるようになり、きわめて霊験あらたかとされたというものである[35]。この人骨は戦国時代の戦死者のものとみられ、戦死者は御霊になりうる存在だった[35]。しかし、ここでは祟りが考えられた様子は見られず、すぐさま流行神となって、祈願の対象とされている[35]。こうした和霊としての人間霊が押し出されるものについて、宮田登は「典型的な近世の現象」と述べる[35]。
歴史上の流行神
皇極3年(644年)、富士川付近に住む地方豪族の大生部多が虫を神に祀り、常世神を称した[36]。これまでの神格と異質なこの神は、富と寿を与える常世に信者を誘うもので、熱狂的な信仰を得た[36]。その結果、常世神信仰は秦河勝の手で弾圧され消滅するが、一時的な流行神に成長したものとされる[36]。
天慶8年(945年)には、志多羅神の入京により混乱が起きている(志多羅神上洛事件)[37]。同年7月25日、志多羅と号する神輿3前が数百人に担がれて、摂津国河辺郡から同国豊島郡に到着した[38][39]。その後山城国乙訓郡山崎郷を経て、8月1日に石清水八幡宮に到着[38][39]。この時神輿は6前となっており、群衆の数も「数千万人」に及んでいたとされる(『本朝世紀』)[38][39]。
応徳2年(1085年)、京で熱狂的な福徳神信仰が起きている[40]。京の辻ごとに神祠が建てられ、その鳥居の額には福徳神や長福神などの銘が打たれていた[40]。これらの祠は群衆が集まったため、検非違使により破却が命じられた(『百練抄』)[40]。
江戸時代の初めには、中部・東海地方で鍬神信仰が頻発した[41]。伊勢神宮の御師らが鍬形の御神体を村から村へと送るもので、それに付き添って民衆が踊り歩いた[41]。
享保12年(1727年)6月、利根川沿岸で信仰される大杉大明神が常陸国から江戸へと飛来してきた[42]。これは、それ以前から光り物が飛来するなど予兆があったところ、5月29日に震動があって、香取明神の神木の松の木の枝が折れた[42]。その枝に白い御幣があり、これが大杉大明神が飛来したものとされたことによる[42]。これをきっかけとして、江戸中から幟が立てられ、屋台もきらびやかに設えられ、一斉に参詣が行われた[42]。大杉明神は享保10年(1725年)から常陸や下総で流行しており、これが江戸に進出したものと考えられる[43]。
江戸では稲荷信仰が盛んに行われたが[44]、中でも浅草の立花家下屋敷にある太郎稲荷が流行神として著名である[45]。享和3年(1803年)から文化元年(1804年)にかけて大いに流行し、4、5年後にはすっかり寂れてしまった[45]。一度廃れた流行神が再び流行ることはあまりないが、太郎稲荷はこの後も何度か流行を見せている[45]。太郎稲荷が流行った当時は発疹などが流行っており、太郎稲荷はそれを治すのに霊験あらたかとされた[45]。そのために流行ったものとみられる[45]。
幕末から明治にかけていわゆる新宗教が誕生しているが、村田典生はそれらも流行神に含めることができるとしている[46]。その例として天理教や大本教、金光教などが挙げられている[46]。
宮田登は、皇極3年(644年)の常世神の流行の背景として、その前年頃から国内の巫覡たちが神託があることを告げるなど、社会的緊張があったと述べる[36]。また、福徳神信仰の流行が後三年の役の前年であるということや[40]、大杉明神の流行の後に天災や凶作が相次ぎ、享保18年(1733年)に江戸の打ちこわしが発生していることを指摘する[47]。
宮田の研究を受け、流行神出現の根底には社会的緊張や社会不安があるとの認識が一般的となっている[48]。それに対し村田典生は、その認識に馴染まない事例が見られることから、社会不安による流行神の出現はあくまでその出現形態の1つに過ぎないとの見方を示す[48]。
現代の流行神
現代の流行神においては、雑誌やテレビ、ラジオ、インターネットといったマスメディアが情報源となるケースが見られる[49]。
岡山県岡山市の横樋観音は、1982年(昭和57年)9月に海岸で発見された観音像が祀られることになったものである[50]。参詣者から体の痛みが取れたという声が上がるようになったのもあって、口コミで広まっていき、1983年(昭和58年)3月には地元紙の『山陽新聞』のコラムで取り上げられ、テレビやラジオのローカルニュースでも紹介された[50]。これによりさらに参拝者が増え、流行神として定着した[50]。
京都市中京区の御金神社は、元は金属類を司る鉱工業の神とされてきた神社で、金色の鳥居を持つ[51]。この鳥居は、それまでクリーム色だったものを2003年(平成15年)に塗装し直したもので、2006年(平成18年)1月にテレビの旅番組で取り上げられたことをきっかけとして、金運を司る神として全国的に知られるようになった[52]。
東京都千代田区にある東京大神宮は、「縁結びのパワースポット」として人気を集めた[53]。2011年(平成23年)の正月には特にすさまじい数の参拝者を集めており、流行神と呼ぶことができるとされる[53]。
新型コロナウイルスが流行する最中の2020年(令和2年)、その姿を写すことで厄病除けの御利益があるとして、SNS上で「アマビエ」がブームとなった[54]。アマビエは妖怪と呼ばれることが多いが、伊藤龍平は妖怪と神の違いが信仰の有無によるとされることから、信仰の対象であるアマビエは妖怪でなく神であるとし、さらにアマビエの流行現象を「現代の流行神」であると述べている[54]。
人面犬・人面魚・人面木
宮田登は、1980年代から1990年代にかけて流行った人面犬や人面魚、人面木を、噂話から生まれた流行神として挙げる[55]。
人面犬は1989年(平成元年)5月から広まったもので、初めは中学生・高校生の投稿雑誌に登場し、9月になるとテレビで放送されるようになった[55]。この年の暮れまでマスメディアを通して流行したが、年が明けるとパタリと止んだ[56]。
人面魚は鯉の一種で、人面犬と入れ替わりに人気となった[57]。山形県の善宝寺は境内の池に人面魚がいるとして多数の参拝者がやってきた[57]。
人面魚が下火となった1990年(平成2年)9月、千葉県八千代市の公園にあるケヤキの木の切り口が人の顔に見えるとして、『朝日新聞』に人面木として取り上げられた[58]。人面木はテレビでも紹介され、見物人により木の前に賽銭が置かれるようになった[58]。人の顔に見えることを発見した近所の接骨院経営者がしめ縄を張って「ゆりの木観音」と称すると、さらに人が集まるようになり、木に触れると御利益があるとの話も生まれた[58]。
村田典生はこれらについて、信仰的感情を発露したものではないとし、流行神と呼ぶことに疑問を呈している[59]。