浅井城 (越中国礪波郡)
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規模
平野部に突き出した標高57メートルの丘陵先端部に築かれていた。低地との比高差は40メートル。2つの主要な曲輪のほか、切岸・堀切が残る[2]。南西約600メートルにある赤丸城より規模はやや小さい。付近を旧北陸道である「山根道」、また宝達山を通り能登国志雄(現石川県宝達志水町)へと抜ける道が通っていた。北側山麓には延喜式内論社である浅井神社が所在する。
城主は、勝興寺の坊官を務め一向一揆に参加し、永禄年間(1558年-1570年)末に増山城の神保長職と衝突した下間氏や、浅井神社と関わりのある中山氏ではないかと考えられている[2]。中山氏については、室町時代-戦国時代前期の15世紀代は浅井城を本城としていたが、16世紀代に入ると赤丸城へ移動したと考えられている[2][3]。
