浦賀船渠
神奈川県横須賀市にあった造船所
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概要
幕府の浦賀造船所
浦賀での造船の歴史は1853年(嘉永6年)のペリー来航までさかのぼる。9月15日、江戸幕府は「大船建造の禁」を解き、11月15日に浦賀造船所を創設し、浦賀奉行所与力の中島三郎助らに命じて直ちに軍艦の建造を始めたところ、1854年(嘉永7年、安政元年)1月、再びペリーが渡来し、日米和親条約の締結に至った。5月には国産初の洋式帆船の軍艦である「鳳凰丸」が完成(総工期7か月)[2]。この帆船に掲げる国旗として日の丸が規定されたのが、日本国旗の始まりである。しかし同年7月からは伊賀上野地震を初めとする安政の大地震の時期に入る。
また1859年(安政6年)には日本初のドライドックが完成し、アメリカへ向かう咸臨丸の整備が行われている。しかし小栗忠順らにより、横須賀港に製鉄所を建設することを決定し(後の横須賀造船所、横須賀海軍工廠)、艦艇建造の中心は横須賀へ移り、浦賀造船所は1876年(明治9年)に閉鎖された。
浦賀船渠
中島三郎助の意志を継いだ荒井郁之助・榎本武揚・塚原周造が中心となり、1897年(明治30年)に浦賀船渠が設立。かつての浦賀造船所と同じ場所に工場が建設された。同時期に同じ浦賀に建設された東京石川島造船所(後の:IHI)の浦賀分工場との間で、艦船建造・修理の受注合戦が繰り広げられたという。この競争はダンピング合戦を生み、両社の経営を悪化させた。ほどなくして石川島の浦賀分工場を浦賀船渠が買収、自社工場とすることで決着した。
艦艇建造
石川島との競争や、フィリピンへの砲艦輸出が不調となるなど、当初は経営が思わしくなく、渋沢栄一や浅野総一郎などが再建に手を差し伸べた。1912年(明治45年)に就任した第5代社長によりようやく経営が安定した。その後の第一次世界大戦による好況(特需景気)もあり経営は立ち直った。
艦艇の建造は、日露戦争時に横須賀工廠から艦載水雷艇を受注したことに始まる。1907年(明治40年)に初めて駆逐艦「長月」を建造した。その後も小艦艇建造を中心的業務としており、特に駆逐艦の建造で有名で、大阪にあった藤永田造船所と共に駆逐艦建造の名門であり、「西の藤永田、東の浦賀」と呼ばれていた(軽巡洋艦 2隻、駆逐艦 44隻、海防艦 11隻+2隻未完)。
1914年(大正3年)には国内初の鋼製純貨物船[3]として「第五長久丸」が竣工。注目されていたこの船が成績優良につき、同型船6隻及びさらに大型の船6隻も受注して開業以来の盛況を呈した[4]。その後1924年(大正13年)には国内初の旅客兼車両渡船(鉄道連絡船)として青函連絡船「翔鳳丸」と「飛鸞丸」が竣工。両船の就航後の成績も良好で、その後多くの青函連絡船を浦賀で建造する事となった。
戦後
太平洋戦争後も海上自衛隊向けに艦艇建造を続け、米空母ミッドウェイの大規模改修、日本丸建造なども行われた。住友機械工業と合併した際、追浜造船所(後の横須賀造船所)を開設、民間船建造はこちらに移った。浦賀地区は工場集約のため2003年(平成15年)に閉鎖された。閉鎖後は資材置場として使用されてきた[5]。
浦賀船渠の第1号ドック(通称浦賀ドック)は世界に4か所にしか現存していないレンガ積みドライドックのうちのひとつとなっている。国内でも明治期のものは浦賀ドックと川間ドック跡しかなく、両者とも貴重な文化遺産である。
2007年(平成19年)11月30日、浦賀船渠の第1号ドック、ポンプ施設、ドックサイドクレーンが近代化産業遺産に認定。
2021年(令和3年)3月、浦賀ドックとその周辺所有地の一部が、住友重機械工業から横須賀市に無償で寄付される[1]。2023年(令和5年)3月 、住友重機械工業株式会社と横須賀市の2者間で「浦賀駅前周辺地区の活性化に関する協定」を締結[6]。2024年(令和6年)11月 、浦賀駅前地区活性化事業の事業者公募を開始。2025年(令和7年)10月、浦賀駅前地区活性化事業の事業者の選考結果、優先交渉権者が決定した[7]。
沿革
浦賀造船所
浦賀船渠
- 1895年(明治28年) 10月 株式会社東京石川島造船所(後の株式会社IHI)が浦賀分工場を建設
- 1898年(明治29年)
- 5月 陸軍要塞砲兵幹部練習所敷地を取得
- 9月28日 創業総会
- 1897年(明治30年)
- 2月 ドックの建設開始
- 6月21日 浦賀船渠設立登記
- 1898年(明治31年) 11月 東京石川島造船所浦賀分工場の操業開始
- 1899年(明治32年) 11月 1号ドック完成
- 1900年(明治33年)
- 1月 浦賀船渠の営業開始
- 6月10日 新造第1船竣工
- 1902年(明治35年) 8月 東京石川島造船所浦賀分工場を買収、川間分工場とする。
- 1907年(明治40年) 浦賀で初の駆逐艦「長月」竣工
- 1914年(大正3年)国内初の鋼製純貨物船[3]「第五長久丸」竣工[注 1]
浦賀船渠株式会社
- 1917年(大正6年) - 8月、2代目山下汽船の出資により浦賀分工場の買収独立が行われ、浦賀船渠株式会社が設立。創業者は山下財閥の山下亀三郎
- 1923年(大正12年)
- 1924年(大正13年) 初の青函連絡船「翔鳳丸」竣工
- 1925年(大正14年) 5月 軽巡洋艦「阿武隈」竣工
- 1938年(昭和13年) 浦賀船渠の富岡兵器製作所を分離独立して、大日本兵器設立。青島工廠の経営を委託される
- 1943年(昭和18年) 2月25日 W型戦時標準船のモデル船として第四青函丸竣工
- 1944年(昭和19年) 四日市造船所開設。翌年9月閉鎖
- 1945年(昭和20年) 9月28日 第十一青函丸が戦後竣工第1船となる
- 1948年(昭和23年) 8月31日 戦後初の旅載青函連絡船として「摩周丸」竣工、際立った豪華さを誇った。子会社として玉島デイゼル工業[注 2] を岡山県に設立。
- 1953年(昭和28年) - 子会社の玉島デイゼル工業株式会社が浦賀玉島デイゼル工業株式会社へ社名変更。
- 1955年(昭和30年) 敷設艇えりも竣工(戦後初の自衛艦建造)
- 1957年(昭和32年)- アメリカにニューヨーク事務所〈後のSHI(USA)〉開設。
- 1961年(昭和36年) 記念館三笠修復工事完了
- 1962年(昭和37年) 子会社の浦賀玉島デイゼル工業と合併し、浦賀重工業株式会社設立。
浦賀重工業
歴代社長
主な製品
艦船
戦前
- 軍艦
- 駆逐艦
- 官公庁船
- 民間船
戦後
その他の製品
関連会社、造船所
周辺地区の再整備
施設の周辺地区について横須賀市では1991年に「浦賀国際文化村構想」、2003年に「浦賀港周辺地区再整備計画」が策定されたが、いずれも2018年に廃止になっている[5]。施設及び周辺部の無償寄付を受けて、横須賀市はドックを保存し工場跡地部分の活用方法を検討するとともに、ガイド付きの公開ができるよう準備を進める旨を公表している[1]。
2021年(令和3年)浦賀ドックは住友重機械工業株式会社から横須賀市へ寄贈され、「浦賀レンガドック」としてイベント等で限定的に一般公開されている[10][11]。一般公開時期以外の見学希望の際はよこすかシティガイドが行っている見学ツアーに参加が必要[12]。
2024年(令和6年)3月に、住友重機械工業と本市が締結した協定を踏まえ、この度、住友重機械工業所有地(約12.2ha)と横須賀市有地(2.8ha)の約15haを一体的に活用した賑わいづくりを目的とした、浦賀駅前周辺地区の活性化に関する開発を担うパートナー事業者の公募を実施、選考の結果、2025年(令和7年)10年23日に優先交渉権者がTeam Perry’s(代表企業:インデックス株式会社)に決定[6]。
出版物
- 浦賀船渠『浦賀船渠六十年史』1957年。
- 浦賀船渠(株)『船渠六十年史』(1957.06)|渋沢社史データベース 2023年6月19日閲覧。
関連項目
- 戦前の日本の造船所一覧
- 浦賀
- 住友重機械工業
- サブマリン707 - 潜水艦漫画。浦賀ドックへ大破した707号が入渠する場面がある。
