深谷亮司
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2024年3月27日 ちゅ~るスタジアム清水にて | |
| 基本情報 | |
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| 出身地 | 福岡県筑後市 |
| 生年月日 | 1974年12月9日(51歳) |
| 身長 体重 |
179 cm 83 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 捕手、三塁手 |
| プロ入り | 2001年 ドラフト13巡目 |
| 初出場 | 2002年4月3日 |
| 最終出場 | 同上 |
| 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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この表について
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福岡県立八女工業高等学校から進んだ九州共立大学では柴原洋と同期で3年秋ベストナイン、4年時に前田浩継とのバッテリーで大学選手権準優勝。河合楽器に入社。正捕手として活躍し、2001年の第72回都市対抗野球大会優勝にも貢献した。同年にチームが休部となったあと、ドラフト会議でオリックス・ブルーウェーブに13巡目で指名され入団した。当時オリックスが下位指名選手に対し行っていた、契約金0円選手のひとりである。年俸は480万円だった[1]。
2002年シーズンは開幕一軍入りを果たし、4月3日の対日本ハムファイターズ戦で9回2死の[[打席](に立つが、建山義紀に三振に打ち取られ、それがNPBにおける一軍公式戦唯一の打席になった[1]。翌4日に出場選手登録を抹消され、また4月半ばに右肩を痛めて2、3週間にわたってスローイングを制限されたことなどから、それ以降は一軍に再昇格することはできなかった[1]。一軍出場機会に恵まれず、入団時27歳という高齢や右肩の故障がネックになり、1年で戦力外通告を受け現役を引退[1]。一軍登録日数が10日に達すれば出来高1000万円を受け取れる契約だったが、登録日数は4日のみに終わったため、出来高は受け取れなかった[1]。
引退後はオリックスのブルペン捕手に転身した[1]。2005年にオリックスと大阪近鉄バファローズが合併し、球団名が「オリックス・バファローズ」に変更された2005年には育成部門へ異動し、同年末に退団。
2006年より2年間四国アイランドリーグ、徳島インディゴソックスのコーチを務める。2008年より新設された福岡レッドワーブラーズのコーチに就任。チームが活動を休止するまで2シーズン務めた。福岡退団後、横浜ベイスターズ二軍(2010年のチーム名は「湘南シーレックス」)のブルペン捕手となったが[2]、2011年のシーズン終了後に解雇された[3]。
2012年より社会人野球のNOMOベースボールクラブのコーチを[4]、その後は熊本ゴールデンラークスのヘッドコーチを務めていたが[5]、2016年末に退部した。その後、熊本ヒゴバックスのコーチを経て、2018年から2020年まで再度ゴールデンラークスのコーチを務めていた[6]。
2016年の学生野球資格回復研修を受講した上で、翌2017年2月7日に日本学生野球協会より学生野球資格回復の適性認定を受けたことにより、学生野球選手への指導が可能となる[7]。2021年から2023年まで、母校・九州共立大学硬式野球部のコーチを務めた[6][8]。
2024年、くふうハヤテベンチャーズ静岡の初代打撃・野手コーチに就任[6]。翌2025年からはバッテリーコーチに配置転換となる[9]。深谷からの申し出により、同年12月11日まで行われる秋季キャンプをもって退団することが11月28日に発表された[10][11]。DeNAからの声掛けでスカウトに転身
選手としての特徴
アマチュア時代は主に4番捕手として活躍。チャンスの強さにも定評があった[12]。