清野長太郎
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香川県高松出身。高松藩士・清野彦三郎の長男として生まれる。第一高等学校を経て、1895年、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、高等文官試験行政科試験に合格。内務省に入り警保局属となる。富山県参事官、神奈川県参事官、内務省地方局町村課長などを歴任。
1906年1月、秋田県知事に就任。同年11月、南満州鉄道理事に転じた。1916年4月、兵庫県知事に発令され、1919年4月まで在任。 在任中の1918年(大正7年)8月には、神戸市内で米騒動(1918年米騒動)が激化。清野は当初、米価格の高騰に苦しむ庶民を慮り対応を控えていたが、約1万人の暴徒による鈴木商店や神戸新聞社への放火が続くにあたり軍の導入を決断した[1]。
