内山岩太郎

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生年月日 1890年2月28日
没年月日 (1971-11-16) 1971年11月16日(81歳没)
内山 岩太郎
うちやま いわたろう
生年月日 1890年2月28日
出生地 群馬県前橋市天川原町
没年月日 (1971-11-16) 1971年11月16日(81歳没)
死没地 神奈川県横浜市港北区日吉本町
出身校 東京外国語学校(現・東京外国語大学)スペイン語科 中退
前職 外交官
所属政党 無所属
称号 勲一等瑞宝章
親族 十文字信介(岳父)
宗教 カトリック教会
神奈川県の旗 神奈川県知事
当選回数 5回
在任期間 1947年4月5日 - 1967年4月22日
その他の職歴
神奈川県の旗 官選神奈川県知事
1946年1月25日 - 1947年
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内山 岩太郎(うちやま いわたろう、1890年明治23年〉2月28日[1][2][3][4] - 1971年昭和46年〉11月19日[5])は、日本外交官政治家神奈川県知事(官選、公選第1・2・3・4・5代)、テレビ神奈川初代社長。位階正三位。日本の国際連合加盟に貢献をした人物として知られる。元丸紅ブラジル会社副社長の内山勇は三男。

生い立ち

1890年明治23年)、群馬県前橋市[1][2]天川原町[3][4]に、父・内山岩吉、母・ちか子の三男として生まれる[6][4]1902年(明治35年)、群馬県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に入学[6][4]1905年(明治38年)に校長排斥の同盟休校を起こし放校となり[6][4]正則英語学校を経て立教学院に編入、1907年(明治40年)卒業[1]。同年東京外国語学校(現・東京外国語大学スペイン語科に入学[1][7][4]1909年(明治42年)外務省留学生試験に合格したため同校を退学しスペインマドリードに留学する[1][8][7][4]

1912年(明治45年)に外務書記生に任命されスペイン公使館に勤務する[1][8][9][4]1914年大正3年)帰国の途につき、アメリカ経由で1916年(大正5年)1月に日本へ帰国[1][10][11]

外交官時代

外務省を休職して日本大学で学んだ後、1917年(大正6年)に外交官領事官試験に合格し、外交官補としてチリに赴任する[1][12][13]。その後、ヴェルサイユ条約実施事務のためパリ、国際行政監督班員としてドイツ帝国、第1回国際連盟総会のためジュネーヴと、各国で勤務する[1][14]1921年(大正10年)にはポーランド公使館開設に伴い三等書記官に任命され、川上俊彦公使のもとで勤務[1][15][13]1922年(大正11年)に帰国[1][14][15][13]

1923年(大正12年)内田康哉外務大臣秘書官に任命される[1][15][13]。同年通商局総務課事務官となる[1][16][17]1924年(大正13年)十文字信介の娘・登志子と結婚[1][18][19][17]。同年中国への出張の後、経済調査団として翌年まで中南米各国を回る[1][18][20][17]

1926年(大正15年)スペイン公使館二等書記官として赴任[20][17]。同年ジュネーヴで開かれた第8回国際労働会議に政府代表顧問として参加する[21][1][18][20][17]。またペルシャ公使館開設のため出張[1][22][23][17]1927年昭和2年)フランス公使館二等書記官としてパリに赴任[22][23][11]

1928年(昭和3年)にアルゼンチン勤務を命じられ翌年着任[24][17]1930年(昭和5年)に帰国[1][24][25]1931年(昭和6年)にサンパウロ総領事を命じられ、護憲革命ポルトガル語版英語版に遭遇[1][26][25]。その後ブラジル大使館一等書記官、さらに参事官となり1936年(昭和11年)帰国[1][27][25]

1937年(昭和12年)、フランス大使館参事官となり[1][28][25]杉村陽太郎大使のもとで勤務しフランス在留の長い楢橋渡と親しく交わった[28][25]。同年アルゼンチン公使に就任[29][25]1940年(昭和15年)松岡洋右外務大臣の方針により召還され、翌年免官となるが、豊田貞次郎が外務大臣となると復官[1][30][31]1941年(昭和16年)仏印進駐に伴い、芳沢謙吉フランス領インドシナ大使のもとでサイゴンに勤務[1][32][31]1943年(昭和18年)に外務省を退官[33][32][31]。その後は南方農林協会理事長や財閥の顧問などを務める[33]

神奈川県知事

1962年5月21日、ホワイトハウスにてケネディ大統領(左)と。

1946年(昭和21年)1月25日、官選の神奈川県知事に就任[1][34][35]。この抜擢は幣原内閣運輸大臣を務めていた楢橋渡の推薦によるものだった[34][35]厚生省浦賀援護局長も兼務し、引き揚げ業務も管轄した[36]。4月19日・20日には戦後巡幸のはしりとなる昭和天皇の神奈川県行幸を迎えた[37][35]。食糧配給に苦心し、第8軍を訪れて米軍の糧食の放出を交渉し、これを実現した[38][35]特別市設置の議論においては横浜市を有する神奈川県知事として反対勢力の先頭に立ち、1947年(昭和22年)に地方自治法が成立し特別市が規定された後も、反対の主張を続け、最終的には規定の廃止にまで持ち込んだ[39]

1947年(昭和22年)3月12日、神奈川県知事選に立候補のために辞表を提出[40]無所属で出馬した4月5日の選挙では自由党小此木歌治社会党橋中一郎を破り当選を果たした[40]。自由党内部でも河野一郎中助松らが小此木を擁立する一方、岩本信行小串清一が内山支援に回るなど分裂があった[40]。副知事として神奈川県庁勤務時代に目をつけていた大蔵省主計官佐藤一郎に打診を行うが固辞されたため、内務次官斎藤昇が推薦した豊原道也(元官選山梨県知事)と法務総裁鈴木義男が推薦した松本烈(元横須賀市総務部長)の2人を起用したが、両者の反目に手を焼くこととなった[41]1948年(昭和23年)には神奈川県章の制定、1950年(昭和25年)には神奈川県民歌「光あらたに」の制定のほか、県の花やまゆりの制定などを行っている[42][43]。1948年(昭和23年)神奈川県観光協会長に就任[6][11]1949年(昭和24年)には横浜市金沢区石川島産業の工場を買収し神奈川県工業試験所を開設、理研の北嶋三省を所長に招き工業技術の振興に力を注いだ[44]。1949年(昭和24年)横浜市で開催された日本貿易博覧会では副総裁を務める[45][11]1950年(昭和25年)、日本アルゼンチン協会会長[6][11]

1951年(昭和26年)4月30日の2度目の知事選挙では社会党が田上松衛を擁立したが、これを破り再選した[46]。2期目では2人の副知事を更迭して1人副知事にすることを目論み、横浜市助役経験のあった角田栄太郎を抜擢したが、角田は翌年死去した[47]。1951年5月に全国知事会副会長に就任した[6][11]1953年(昭和28年)の第3回参議院議員通常選挙への立候補を推す声も存在したが、参議院議長佐藤尚武横浜市長平沼亮三、憲政の神様・尾崎行雄などに相談した結果、3月19日に不出馬を表明した[48]1955年(昭和30年)4月に神奈川県体育協会長に就任[6][11]

1955年(昭和30年)3度目の知事選挙では民主党内で内山を推す松尾嘉右衛門とそれに反対する河野一郎の対立があったが、自由党民主党の推薦を受け、社会党の相沢重明を破って3選を果たした[49]。同年10月には第10回国民体育大会を神奈川県で開催[50][51]1956年(昭和31年)日本ベネズエラ協会会長に就任[6]辻堂演習場における砲撃中止について直接在日米軍と交渉してこれを実現させ、通信部隊の受け入れも拒絶して1959年(昭和34年)に返還を実現した[52]

1959年(昭和34年)4度目の知事選挙では自民党の推薦を受け、社会党などが推薦する兼子秀夫自治省選挙局長)を破り4選を果たした[53]。同年東京オリンピック組織委員会が設置されるとその委員となり、セーリングの実施地となった江の島湘南港の建設を進めた[54]。また箱根・芦ノ湖畔に国際会議場の建設を目指したが、これは実現しなかった[55][5]。内山は西武グループ堤康次郎と個人的に親交を結んでいたが、箱根山戦争にあたっては西武の専用道路であった湖畔線の買収を進め、1960年(昭和35年)にこれを実現した[56]。さらに住民が要望する早雲山線(県道734号735号)の買収交渉も試み、実現できなかった場合に内山が失脚することをおそれた堤は、社内の反対意見を抑えて1961年(昭和36年)にこれを受け入れる結果となった[56][57]。1960年(昭和35年)5月には脳血栓によって入院を余儀なくされるが、2ヶ月の入院と軽井沢での療養を経て復帰[56][57]。このときの経験をもとに1966年(昭和41年)に厚木市七沢にリハビリテーションセンターを完成させた[58]

1961年(昭和36年)6月15日昭和天皇が各県知事(12の県知事)から地方事情の奏上を受ける場を設けた際には、「地方自治を回顧し、土地の水の問題に及ぶ」と題した説明を行った[59]1962年(昭和37年)、訪米知事団の団長として北南米諸国を歴訪[60][61]

1963年(昭和38年)の5度目の知事選挙の対抗馬として社会党から推薦を受けた若宮小太郎が立ち、河野一郎は内山5選阻止のため若宮を自民党が共同推薦することを企図したがこれは実現しなかった[62]。内山は同郷の福田赳夫の応援も得て、若宮と共産党の中西功の両名を抑えて5選を果たした[62]。5期目では津田文吾五神辰雄の2人を副知事に任命した[63]1964年(昭和39年)海外日系人連絡協会副会長に就任[6][11]、江ノ島ヨットクラブ会長となる[6][11]1965年(昭和40年)には、長年にわたる粘り強い補償交渉によって、城山ダムを完成させた[64][57]1966年(昭和41年)、勲一等瑞宝章を受章[6][61]。同年、アルゼンチンからペヘレイの導入を試み、翌年には津久井湖への放流が行われた[65]

引退と死

1967年(昭和42年)の知事選挙には立候補せず、副知事だった津田文吾を後継者に指名してその当選を助けた[66][61]。もう1人の副知事だった五神辰雄には横浜市長選挙への出馬を勧めたが、五神は飛鳥田一雄に惨敗を喫した[66]

1968年(昭和43年)神奈川県交通安全協会[11]1971年(昭和46年)テレビ神奈川社長に就任[11]

1971年(昭和46年)11月19日、横浜市港北区日吉本町[11]の自宅で心筋梗塞により死去[5]、81歲。12月5日に平沼高校体育館で津田神奈川県知事を葬儀委員長とする県民葬が営まれた[5]。死没日付をもって正四位から正三位に進階した[67]

国連加盟をめぐって

内山は第二次世界大戦後の日本は早急に国際連合への加盟を果たすことが重要であると考えていた[68]。1951年(昭和26年)8月に国連協会神奈川県支部を設立して本部長となった[69][68]。1952年(昭和27年)には小田原大造とともにニューヨーク国連本部に30万人の署名簿を提出し、日本の国際連合加盟をはたらきかけている[69]。その後ラテンアメリカ諸国を歴訪し、ブラジルヴァルガスキューババティスタチリイバニェスら各国首脳と会見し、説得を試みた[69]

日本が国際連合への加盟を目指す上で、ソ連をはじめとする共産圏諸国以上に大きな障壁として立ちはだかったのが、安全保障理事会非常任理事国フィリピンだった。内山はフィリピンとの交渉の中で、日本軍が破壊したマニラの大寺院の復興を提案してフィリピンの対日感情の改善を狙った[70][69]マニラ大聖堂の復旧に使用するセメントは神奈川県内だけで6万袋を調達して贈呈を行い、1958年に献堂式が営まれた[70][71][51]。1956年(昭和31年)にはアジア善隣国民運動が発足し[72]藤山愛一郎を会長として内山は副会長に就任した[71]ビルマパゴダには鎌倉の大仏の模像を、インドネシアにはカルティニの銅像の寄贈を行っている[70][71][73]

人物

シルクセンター

栄典

主な著書・論文

著書

  • 『亜爾然丁の最近経済事情並に日亜貿易に就て』横浜商工会議所、1930年11月。 NCID BA80968247全国書誌番号:44027881 NDLJP:1096258 
  • 『日亜貿易の現状並その対策』日本貿易振興協会〈講演 第2輯〉、1941年1月。 NCID BA31417906全国書誌番号:46041814 NDLJP:1142472 
  • 『アメリカの表情 米国の自治制度視察記』神奈川新聞社、1950年12月。 NCID BN14501054 
  • 「内山岩太郎(神奈川県知事)」『私の履歴書』 第21集、日本経済新聞社、1964年6月、7-82頁。 NCID BN02850792全国書誌番号:49002361 
  • 横浜市総務局市史編集室 編「内山岩太郎日記」『占領期の地方行政』横浜市〈横浜市史 2 資料編 3〉、1993年3月。 NCID BN09745526全国書誌番号:94006324 NDLJP:13178714 

論文

  • 「観光資源としての国立公園今後の在り方」『國立公園』第31号、自然公園財団、1952年6月、6-7頁、NAID 40001377321 
  • 「大自然公園の神奈川」『政界往来』第19巻第4号、政界往来社、1953年4月、47-49頁、NAID 40002013528 
  • 「工業地帯整備と神奈川県」『国土』第3巻第11号、国土計画協会、1953年11月、35-37頁、NAID 40001322608 
  • 「道州制の問題について」『都市問題』第45巻第11号、後藤・安田記念東京都市研究所、1954年11月、1971-1977頁、NAID 40002709124 
  • 「わが文化政策」『芸術新潮』第7巻第6号、新潮社、1956年6月、44-46頁、NAID 40000929414 
  • 「府県行政の実態」『地方自治』第118号、ぎょうせい、1957年10月、106-111頁、NAID 40002376190 

脚注

参考文献

関連文献

外部リンク

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