田部 (企業)
島根県の企業
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株式会社田部(たなべ、英: Tanabe Corporation)は、地域コングロマリットである田部グループの中核会社。
| 種類 | 株式会社 |
|---|---|
| 本社所在地 |
〒690-0062 島根県松江市魚町49 J&Tビル内 |
| 本店所在地 |
〒690-2801 島根県雲南市吉田町吉田2407 |
| 設立 | 1946年11月 |
| 業種 | 水産・農林業 |
| 法人番号 | 8280001005681 |
| 事業内容 | グループの経営戦略策定及び経営管理・東京事業部(「HIGASHIYA man 丸の内」の運営) |
| 代表者 |
25代 田部長右衛門 (代表取締役社長) |
| 資本金 | 2000万円 |
| 売上高 | 47億円(2018年期)[1] |
| 純利益 |
1億5000万円 (2020年9月期)[2] |
| 総資産 |
55億4300万円 (2020年9月30日現在)[2] |
| 従業員数 | 18人 |
| 決算期 | 9月30日 |
| 関係する人物 |
景山俊太郎(取締役) 田部陽子(取締役会長、前代表取締役社長) |
| 外部リンク | http://www.tanabeco.com/ |
島根県松江市にグループの経営戦略策定及び経営管理を行う松江本部、東京都港区に東京事業部を置き、子会社を通じて不動産事業、建築・土木・造園事業、外食事業、山林・里山事業、たたら事業、酒類事業、食品事業、パッケージング事業などを手掛けている。
このほか、グループ会社として山陰中央テレビジヨン放送株式会社を中心にメディア・ICT事業を展開するTSKグループ、島根県・鳥取県の県紙である株式会社山陰中央新報社、日新林業株式会社を中心とする西日本最大の合板メーカーである日新グループ、23代田部長右衛門朋之が収集した美術品を集めた田部美術館などを抱えている。
概要
日本最大の山林大地主である23代田部長右衛門朋之の山林事業の法人化により設立。現在では住宅事業や飲食フランチャイズ事業、養鶏業、不動産管理など幅広い分野の事業を手掛けている。
沿革
- 1946年(昭和21年)11月1日 - 「丸田薪炭有限会社(現・株式会社田部)」設立。
- 1947年(昭和22年)10月8日 - 「日新林業株式会社」設立
- 1953年(昭和28年)10月 - 丸田薪炭有限会社の商号を「田部林産有限会社(現・株式会社田部)」に変更。
- 1955年(昭和30年)10月 - 清泉木材有限会社を吸収合併。
- 1967年(昭和42年)6月28日 - 「樹徳産業株式会社(英: Jutoku Industries Co., Ltd.)(現・株式会社JUTOKU)」設立。
- 1969年(昭和44年)1月 - 「島根放送株式会社(現・山陰中央テレビジヨン放送株式会社」設立
- 1972年(昭和47年)
- 4月1日 - 島根放送株式会社、放送地域を鳥取県に拡大することに先立ち、商号を「山隂中央テレビジヨン放送株式会社(英: San-in Chuo Television Broadcasting Co., Ltd.)」に変更。
- 10月1日 - 山隂中央テレビジヨン放送株式会社、相互乗り入れにより鳥取県での放送を開始。
- 12月 - 日本ケンタッキー・フライド・チキン株式会社とのフランチャイズ契約によりケンタッキーフライドチキンの運営を開始。1号店の米子店(旧米子角盤町店、現在は閉店)開店。
- 1973年(昭和48年)
- 1992年(平成4年)10月 - 田部林産有限会社が株式会社に改組、商号を「株式会社田部(英: Tanabe Corporation)」に変更。
- 1995年(平成7年)11月 - 日本ケンタッキー・フライド・チキン株式会社とのフランチャイズ契約によりピザハットの運営を開始。1号店の広島住吉店開店。
- 1996年(平成8年)10月 - 田部養鶏場(現・たなべ森の鶏舎)開設。
- 2010年(平成25年)
- 2011年(平成26年)6月1日 - 樹徳産業株式会社の商号を「株式会社JUTOKU(英: JUTOKU CORPORATION)」に変更。
- 2013年(平成25年)
- 1月 - 日本サブウェイ株式会社とのフランチャイズ契約によりサブウェイの運営を開始。1号店のフジグラン広島店開店。
- 3月 - たなべ森の鶏舎直営店『ままたまご吉田本店』を道の駅たたらば壱番地に開店
- 2014年(平成26年)
- 2015年(平成27年)11月7日 - 田部真孝、25代田部長右衛門を襲名。
- 2016年(平成28年)6月 - 25代田部長右衛門真孝、山隂中央テレビジヨン放送株式会社代表取締役社長に昇任。
- 2018年(平成30年)1月1日 - 株式会社田部、株式会社松工建設(現:株式会社たなべの杜)の発行済株式の全部を取得し子会社化。
- 2019年(令和元年)10月1日 - 株式会社松工建設が株式会社田部の住環境事業本部の新築リフォーム部および造園外構部を継承、同日付で商号を「株式会社たなべの杜(英: Tanabe no mori, Inc.)」に変更。
- 2020年(令和2年)10月1日 - 「株式会社TANABEグローバルキッチン(英: TANABE Global Kitchen, Inc.)」設立、株式会社田部の外食事業に係る一切の権利義務を継承。
- 2021年(令和3年)10月1日 - 「株式会社たなべたたらの里(英: TANABE TATARANOSATO, INC.)」設立、株式会社田部の山林事業、たたら関連事業および鶏卵事業に係る一切の権利義務を継承。
- 2022年(令和4年)
- 2025年(令和7年)
- 2月7日 - 「株式会社たなべの匠味」設立、『プレジュ』ブランドを『奥出雲NAORAI』にリブランディング。
- 4月 - 米田酒造株式会社を買収。
- 5月1日 - 「株式会社TANABE PKG」設立、医薬部外品および化粧品の包装・表示・保管事業に参入。
営業所
田部グループ
株式会社田部
- 株式会社田部 - 田部グループの事業持株会社
- 株式会社たなべの杜 - 不動産事業、建築・土木・造園事業
- 株式会社TANABEグローバルキッチン - 外食事業
- 株式会社たなべたたらの里 - 山林事業
- 株式会社JUTOKU - 不動産事業
- 出雲湯村温泉株式会社 - 温泉関連事業
- 株式会社田部竹下酒造 - 日本酒醸造事業
- 米田酒造株式会社 - 日本酒醸造事業
- 株式会社たなべの匠味 - 食品事業
- 株式会社TANABE PKG - 化粧品パッケージング事業
TSKグループ
- 山隂中央テレビジヨン放送株式会社[注 1] - 特定地上基幹放送事業者(フジテレビ系列)
- 株式会社ミック[注 2] - ICT関連情報機器・ソフトウェアの販売と保守、セキュリティ対策製品の開発・販売
- 株式会社MCセキュリティ
- 株式会社メディアスコープ
- 株式会社テクノプロジェクト[注 3] - システム開発事業
- 株式会社マツケイ(100%)
- 株式会社松江情報センター
- 株式会社マツケイ(100%)
- ティーエスケイ情報システム株式会社[注 4] - システム開発事業
- TSKエンタープライズDC株式会社 - 映像制作(番組、CM他制作)、イベント企画・プロデュース、広告代理事業、放送設備等の運営管理
- 株式会社TSKネクスト - ビルメンテナンス業
- 株式会社山広 - 総合広告代理業
- 株式会社TSK農縁 - アグリ事業
- 菱農エンジニアリング株式会社 - 2026年7月10日に三菱マヒンドラ農機株式会社から全株式を譲受。同年10月1日付を以ってTSK 菱農エンジニアリング株式会社へ社名変更予定[5]
- 株式会社ミック[注 2] - ICT関連情報機器・ソフトウェアの販売と保守、セキュリティ対策製品の開発・販売
山陰中央新報グループ
日新グループ
- 日新ホールディングス株式会社 - 持株会社
- 株式会社日新 - 合板製造・販売
- NS木質科学研究所(社内組織) - 品質、工程管理・商品開発
- 島根合板株式会社 - 合板製造・販売
- 日新バイオマス発電株式会社 - バイオマス発電事業
- 日新林業株式会社 - 原木調達・合板加工・山林管理経営
- 湖北ベニヤ株式会社 - ハイブリッドMDF複合合板等の製造・販売
- THE NISSHIN WOOD PRODUCTS (CANADA) CO., LTD.
- 島根県合板協同組合 - 組合員の経営支援、業務受託、教育研修会の企画
- 株式会社木ノ道 - 山林経営・森林資源研究
- 中央林産商事株式会社 - 保険代理業
- 株式会社日新 - 合板製造・販売
- 一般財団法人田部謝恩財団
その他・公益法人
- 有限会社松陽印刷所
- 公益財団法人田部美術館
田部家の歴史
たなべの起源

遠祖は紀州熊野(現在の和歌山県)の庄「田辺家」の別派とされる。熊野別当を務めた田辺湛増の孫である田辺隼人正は、源頼朝配下の武将・山内周藤氏に仕えたと伝わる。
1246年(寛元4年)、田辺隼人正の末裔である田辺安西入道が吉田村(現・島根県雲南市吉田町)に入部し、以後11代にわたり武士として仕えた。1460年(長禄4年)、田辺彦左衛門が砂鉄の採取とたたら製鉄を開始した。田辺家では、この彦左衛門を初代当主「鉄山元祖」としている。

4代田辺惣左衛門通政の時代、戦乱によって製鉄事業の継続が不可能となったため、一族を率いて蔀山城(現・広島県庄原市高野町)へと移動した[6]。
江戸時代初期・たたら製鉄の復活
江戸時代前期、田部家は一時的な退避を経て製鉄事業を本格的に再興させた。田部家の「系図」等の記述によれば、6代田辺與三兵衛通年は元和年間(1615年 - 1624年)に備後国高野山(現・広島県庄原市)から飯石郡吉田村に戻り、家業を再興したとされる[7]。この功績から、一族の記録において通年は「鉄山中興」と位置づけられている。
また、この時期の技術革新として、従来よりも送風効率を飛躍的に向上させた「天秤鞴(板踏鞴)」の導入が進められ、鉄の生産能力が大きく向上した[8]。1646年(正保3年)、吉田村内の粟原(あわばら)に田部家初となる「永代たたら[注 5]」を開設し、この炉は1688年(貞享5年/元禄元年)まで操業されたと伝わる[9]。同時期に周辺へ数か所の町鍛冶屋を開設し、採掘から製錬、加工に至る地域的な生産体制を整えていった。
なお、田部家に関わる確実な同時代史料の登場時期について、近世前期の動向を示すものとしては、1662年(寛文2年)8月付の「売申町家屋敷之事」などの史料から、吉田村内で9軒の町家屋敷を購入し、定住と商圏の拡大を進めていた事実が確認されている[10]。
田部家の隆盛と「前錦屋」

9代田辺安右衛門邦年の時代、田辺家は松江藩領内における鉄山経営を大きく拡大させた。一族の系図には「鉄山益々繁昌 金銀如山 米穀満庫」と当時の経済的興隆が記録されている。この時期に松江藩より屋号「前錦屋(まえわたや)」を賜り、これを契機に氏を「田辺」から「田部」へと改めた[11]。当時定められた家紋「前錦屋紋」は、今日の田部グループ各社のコーポレートアイデンティティ(CI)として継承されている。続く10代田部長右衛門元年の時代には、松江藩より「長右衛門」の名を賜る。以後、田部本家の当主は代々「長右衛門」を世襲している[12]。
1751年(宝暦元年)、田部家は主要な生産拠点として菅谷たたらを創業した[13]。現在、島根県雲南市吉田町に位置する「菅谷たたら山内」には、かつてたたら製鉄が行われていた固定の屋内施設「高殿」が日本で唯一当時の原形のまま現存しており、国の重要有形民俗文化財に指定されている[注 6][14]。この菅谷高殿の周辺には、鉄山管理を担った「元小屋」や、生産された巨大な鉄の塊(鉧)を破砕するための「たたら場」などの生産遺構群が現存している。これら山内集落一帯の歴史的景観は、スタジオジブリ制作のアニメーション映画『もののけ姫』に登場する「タタラ場」の重要なモチーフになったことでも知られている[15]。
1755年(宝暦5年)、12代田部長右衛門元義は松江藩より奥出雲地方の鉄山経営を統括する「鉄師頭取(てっしとうどり)」に任命された[16]。1780年(安永9年)、江戸幕府によって鉄の専売機関である「鉄座」が設置されると、鉄価格の下落を招き、田部家の経営に大きな打撃を与えたが、同機関は1785年(天明5年)に廃止された。1787年(天明7年)には、松江藩7代藩主・松平治郷(不昧)の領内巡見に伴い、田部家への御成が行われた。
1796年(寛政8年)、松江藩は会津藩から400駄(約54,400 kg)におよぶ銑鉄の注文を受け、田部長右衛門らがその取りまとめを命じられた。この鉄は宇龍や美保関から北前船によって新潟へ海上輸送された後、阿賀野川をさかのぼって会津へと搬入された[17]。史料によれば、1802年(享和2年)から1825年(文政8年)にかけての田部家のたたら操業は年平均87回を記録した。1回の操業が3昼夜(72時間)に及ぶため、これは実質的に年間を通じてほぼ連続操業状態であったことを意味する[18]。1811年(文化8年)には、第8代藩主・松平斉恒の御成を迎えている。幕末の1862年(文久2年)には、市場の変動により鉄価格が急騰した。
1866年(慶応2年)、田部家の傘下で庄屋を務めていた竹下家の6代当主・竹下理八に対して、田部家が保有していた日本酒の醸造権が譲渡された[16]。1828年(文政11年)の記録によれば、当時の田部家の酒造高は吉田村で396石、松江城下の白潟(現・松江市白潟本町)で360石に達していた。
近世(江戸時代)から明治期にかけて、たたら製鉄の燃料となる木炭供給を背景に田部家の山林保有量は拡大し、最盛期には2万5,000ヘクタール(現在の大阪市の総面積に匹敵する規模)に達した。さらに1,000ヘクタールの小作地(農地)を領有し、1,000戸の小作人を抱え、1,000頭の牛馬を所有したとされる[18]。1865年(慶応元年)には大火によって吉田村の3分の2が焼失し、これに伴い田部家の主屋が現在の位置へと移転・再建された。
明治維新とたたら製鉄の終焉

明治維新後、廃藩置県によって松江藩が廃止されると、100年以上にわたり出雲地方の鉄山業を支えていた藩の保護政策や特権的な統制流通制度は瓦解した。1873年(明治6年)には日本坑法(のちの旧鉱業法の前身)が制定され、砂鉄採取や鉱区に対する新たな租税負担が課されるようになった[19]。さらに、開国に伴う安価な洋鉄の大量流入や、国内における近代高炉による製鉄技術(官営八幡製鉄所の操業など)の確立は、生産効率で劣る伝統的なたたら製鉄に極めて深刻な打撃を与えた[20]。
このような厳しい経営環境にあって、田部家は販路拡大と産業振興を模索し、1893年(明治26年)のシカゴ万国博覧会や1900年(明治33年)のパリ万国博覧会へ伝統製法による高級和鋼「玉鋼」を出品した。その純度の高さと優れた品質は海外でも高く評価されたものの、近代化と量産化を背景とした安価な鋼鉄の世界的潮流には抗えなかった[21]。1923年(大正12年)、21代田部長右衛門長秋は、市場環境の悪化に伴い菅谷たたらの操業停止を決定し、中世より続いてきた製鉄事業の歴史に終止符を打った[20]。
23代 田部長右衛門朋之

23代田部長右衛門朋之は、1933年(昭和8年)に京都帝国大学経済学部を卒業後、家業である山林事業の近代化・多角化に着手した。第二次世界大戦後、現在の株式会社田部の前身となる「田部林産有限会社」を設立し、近代林業および合板産業の発展を牽引した[22]。また、私財を投じて「松之舎病院」を創設し、同院はのちに県に移管されて島根県立中央病院となった。メディア分野では、経営難に陥っていた地方紙を統合して島根新聞社(のちの株式会社山陰中央新報社)を設立し、地域情報インフラの基盤を整えた[22]。
政治面では、1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる翼賛選挙)で衆議院議員に当選。戦後は1959年(昭和34年)から島根県知事を3期12年務め、「後進県打破」を掲げて近代化投資やインフラ整備、県立博物館・図書館などの文化施設拡充を推し進めた[22]。
のちに第74代内閣総理大臣となる竹下登(田部家傘下の庄屋・竹下家の末裔)の国政進出を後援したほか、のちに参議院議員として国政に影響力を持った青木幹雄が長年にわたり朋之の秘書を務めるなど、島根県および国政に大きな影響を与えた[23]。
24代 田部長右衛門智久

24代田部長右衛門智久は、父・朋之の島根県知事就任に伴い、若くして田部林産などのグループ企業の代表取締役に就任した[22]。1969年(昭和44年)、島根放送株式会社(現・山陰中央テレビジョン放送、略称:TSK)の創設に関わり、初代代表取締役社長に就任した。開局にあたっては、田部家と親交の深かった竹下登がフジサンケイグループ会議議長の鹿内信隆に直談判、これによりフジテレビジョンをキー局とするフジネットワーク(FNS)への加盟を果たした[6]。1972年(昭和47年)には鳥取県への放送区域拡大(電波相互乗り入れ)に伴い、商号を「山陰中央テレビジヨン放送株式会社」へ変更した。智久は地方メディアのデジタル化推進に寄与し、日本民間放送連盟副会長などの要職を歴任したほか、中国地方におけるケンタッキーフライドチキンのフランチャイズ権獲得やIT産業への早期進出など、グループの多角化を加速させた[22]。1999年(平成11年)11月7日、61歳で急逝。のちに参議院議員となる青木一彦(青木幹雄の長男)は、かつて智久の秘書を務めていた。
25代 田部長右衛門真孝

現当主である25代田部長右衛門真孝は、中央大学法学部政治学科を卒業後、2002年(平成14年)4月1日付で系列キー局であるフジテレビジョン(現:フジ・メディア・ホールディングス)に入社。同期には中野美奈子、中村仁美[24]がいる。入社後は報道局に所属。海外特派員、営業局ネット営業部、財経局経理部を経て、2010年(平成22年)3月にフジテレビを退社、島根県へ帰還する。
同年4月に株式会社田部の代表取締役社長、同年6月に山陰中央テレビジヨン放送の取締役に就任した[25]。社長就任後、田部グループの経営立て直しに着手。約6年をかけて全事業の抜本的な見直しと経営管理体制の刷新を行い、全部門の黒字化を達成した[25]。
2015年(平成27年)11月7日、父・長右衛門智久の17回忌法要を機に、25代『田部長右衛門』を襲名し、関係者にその旨を報告した[26][27][28]。2016年(平成28年)6月、山陰中央テレビジョン放送の代表取締役社長に就任。
同年10月、「たたらを中心とした地域づくり」を掲げて株式会社田部に「たたら事業部」を新設、「たたらの里プロジェクト」を始動させる。2018年(平成30年)5月、吉田の地でおよそ100年となるたたら操業の復活を成し遂げた[29]。
2022年(令和4年)11月1日には、後継者不足に直面していた元首相・竹下登の生家である老舗蔵元「株式会社竹下本店」から日本酒の醸造・販売事業を承継し、新たに「株式会社田部竹下酒造」を設立。約150年ぶりに田部家として酒造業へ再参入を果たす。長右衛門は先代への敬意から、田部竹下酒造の新銘柄を「理八」と命名した[29]。