畠山重篤

From Wikipedia, the free encyclopedia

死没 (2025-04-03) 2025年4月3日(81歳没)
日本の旗 日本 埼玉県所沢市
言語 日本語
畠山 重篤
(はたけやま しげあつ)
誕生 (1943-10-07) 1943年10月7日
中華民国の旗 中華民国 上海
死没 (2025-04-03) 2025年4月3日(81歳没)
日本の旗 日本 埼玉県所沢市
職業 エッセイスト
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 宮城県気仙沼水産高等学校卒業
ジャンル エッセイ
主な受賞歴 小学館児童出版文化賞(2001年)
日本エッセイスト・クラブ賞(2003年)
吉川英治文化賞(2012年)
産経児童出版文化賞(2012年)
みどりの文化賞(2015年)
テンプレートを表示

畠山 重篤(はたけやま しげあつ、1943年10月7日[1] - 2025年4月3日[2])は、日本の養殖漁業家、エッセイスト京都大学フィールド科学教育センター社会連携教授[3]。「牡蠣の森を慕う会」」(現「特定非営利活動法人森は海の恋人」)の代表を務めた。

中国上海に生まれる[4]。父親は会社員だったが、第二次世界大戦終戦後、故郷の舞根もうね宮城県唐桑町)へ戻り牡蠣養殖を始めた。周辺に子供が少なく、重篤は海川でハゼ釣りや小エビ捕り、山でキジを追う少年時代を送った[5]。1962年、宮城県気仙沼水産高等学校卒業[3]。家業である牡蠣養殖を継ぎ、北海道から種貝を取り寄せて、宮城県では初めて帆立の養殖に成功した。

日本は高度経済成長期を迎えていた1964年頃から、舞根を含む気仙沼湾沿岸では生活排水で海が汚染されて赤潮が発生するようになり、それに染まって売り物にならない「血ガキ」が相次ぎ、廃業する漁師が続出するようになった[6]。子供の頃に山も歩き回った畠山は、陸にも原因があると感じていた。確信に変わったのは、1984年フランス訪問だった[7]。磯に魚介類が豊富で、河口の街で稚ウナギ料理が出されたのを見て、ロワール川を遡ると広葉樹林があったのを目の当たりにして、森の重要性に気づく[4][5][7]

当時、気仙沼湾に注ぐ大川には水産加工場の排水が流れ込み、上流部では安い輸入木材に押されて針葉樹林が放置されて保水力が落ち、大雨で表土が流されていた[6]。畠山が上流での森づくりを呼び掛けると、漁師仲間70人程度が賛同し、「牡蠣の森を慕う会」を立ち上げた[7]。のちに、母が新造漁船用に貯めていた資金も用いて、北海道大学教授に科学的調査を依頼したところ、気仙沼湾の植物プランクトンなどを育むリン窒素などが大川から供給されていることが実証された[5]

1989年、大川の上流にあたる室根山で植樹祭がはじまった[6][7][8]。この活動では、地元の歌人熊谷龍子が発案した「森は海の恋人」を標語にした[3][7]。一方、外部からは活動への批判・疑問も寄せられたほか、大川上流が岩手県という行政の縦割りも障害になった[3]。しかし、環境保護機運の高まりもあって、大川上流の室根山(現在は矢越山)への植樹運動は広がり、この活動は小中学校の教科書にも掲載されていた[8]

2004年、京都大学フィールド科学教育研究センター社会連携教授[3]。2009年、NPO法人森は海の恋人を設立する[8]。2011年の東日本大震災では母親が死去し、津波で漁船や養殖用が流出した[4][6]。しかし、植樹祭は上流の住民らが継続し、養殖業も息子らが再開させた[5]。日本バプテスト同盟気仙沼教会の会員で、キリスト教関係の集会でも講演をしていた[9][10]

2025年4月3日、肺血栓塞栓症のため所沢市内の病院で死去した。81歳没[11][12]。死後、気仙沼市名誉市民となった[2]

受賞

著書

  • 森は海の恋人北斗出版 1994年 のち文春文庫
  • 『漁師が山に木を植える理由』松永勝彦共著 成星出版 1999年
  • 『リアスの海辺から』文藝春秋 1999年 のち文庫化
  • 『漁師さんの森づくり 森は海の恋人』講談社 2000年
  • 『日本〈汽水〉紀行 「森は海の恋人」の世界を尋ねて』文藝春秋 2003年 のち文庫化
  • 『カキじいさんとしげぼう』講談社 2005年
  • 『牡蠣礼讃』文春新書 2006年
  • 『鉄が地球温暖化を防ぐ』文藝春秋 2008年 『鉄で海がよみがえる』文春文庫
  • 『森・川・海つながるいのち』童心社(守ってのこそう!いのちつながる日本の自然)2011年
  • 『鉄は魔法つかい 命と地球をはぐくむ「鉄」物語』絵:スギヤマカナヨ 小学館 2011年
  • 『牡蠣とトランク』ワック 2015年

出演

脚注

外部リンク

Related Articles

Wikiwand AI