白沢 (瑞獣)
人語を解する聖獣
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生態
姿
獅と白沢
白沢にまつわる文化
白沢図
伝説によれば、中国最古の王、黄帝が東海地方を巡行したおりに、恒山に登ったあとに訪れた海辺で白沢に出会った[10][11]。その時黄帝に1万1520種に及ぶ天下の妖異鬼神の知識について語り世の害を除くため忠言した[10][11]。黄帝はそれらの知識を部下に書き取らせた。こうしてできた書物を『白沢図』という。ここでいう妖異鬼神とは人に災いをもたらす病魔や天災の象徴であり、『白沢図』にはそれらへの対処法も記述されており、単なる図録ではなく今でいうところの防災マニュアルのようなものである。
伝説の真偽がどうであれ、『白沢図』という書物は古代中国に実際に存在し、捜神記には次の逸話が存在する。
諸葛恪が丹陽太守であったころ、狩りで山間に差し掛かった際に子供のような姿の妖怪が現れ、手を伸ばして引っ張ろうとしてきた。伸びた手を諸葛恪が掴み逆に妖怪をその場から引き離すと、妖怪はすぐに死んでしまった。感嘆した部下が、諸葛恪は神通力を持っているのかと尋ねると、諸葛恪は「このことは『白沢図』に書かれている。『山間に住む精は子供のような姿をしており、人を見ると手を伸ばして引っ張ろうとする。名を「傒嚢(けいのう)」といい、その場所から引き離せばすぐに死んでしまう』と。私はこれを知っていて、諸君はたまたま知らなかったというだけだ」と答えた。
呉の孫権のとき、陸敬叔は建安郡(福建省)の太守をしていたが、あるとき人をやって樟の大木を伐らせた。 ところが、二、三度斧を打ち下ろすと、突然、血が流れ出た。そして木が倒れたとき、人間の顔をして、身体は犬の怪獣が木の中から出てきた。敬叔は、「これは彭侯というのだ。」と言って煮て食べたが、犬のような味がした。『白沢図』に言う。『木の精は名前を彭侯といい、形は黒犬のようだが尾がない。煮て食べることができる。』
しかしながら、北宋代に散逸してしまった[12]。ただし、逸文がいくつか残っており[13]、さらに20世紀初頭、莫高窟から出土した敦煌文献のなかには『白沢図』と関連する図画(白沢精怪図)が見つかっている。それらを参考材料として、現代の学者によって『白沢図』の復元が試みられている[12]。
以上のような『白沢図』とは別に、唐代以降の中国の民俗宗教では、白沢そのものの図画が厄よけ(辟邪絵)になるとして信仰された[14][15]。日本でも江戸時代には、旅行ガイドブックに描いて道中のお守りとして身につけたり(八隅蘆菴『旅行用心集』など[16])、病魔よけに枕元においたりした。
為政者と白沢
白沢は徳の高い為政者の治世に姿を現すとされることと、病魔よけになると信じられていることから、為政者は身近に白沢に関するものを置いた。中国の皇帝は護衛隊の先頭に「白沢旗」を掲げたといわれる。
白沢が出てくる歴史資料
日本
中国
- 葛洪『抱朴子』極言:「(黄帝)窮神奸、則記白沢之辞。」
- 瞿曇悉達『開元占経』巻一一六:「『瑞応図』曰:黄帝巡於東海、白沢出、達知万之情、以戒於民、為除災害。」[3]
- 杜佑『通典』巻第一百七・礼六十七・大駕鹵簿:「次清遊隊、白沢旗二(分左右、各一人執、二人引、二人夾也)」「左右領軍白沢文」(白沢旗や白沢の模様が天子の軍に使われることを言う)
- 張君房『雲笈七籤』巻一百引王瓘『軒轅本紀』:「帝巡狩、東至海、登桓山、於海浜得白沢神獣、能言、達於万物之情。因問天下神鬼之事。自古精気為物・游魂為変者、凡万一千五百二十種、白沢言之、帝令以図写之、以示天下。」[2][9]
- 『新唐書』巻三十四 志第二十四 五行一:「韋后妹嘗為豹頭枕以辟邪、白沢枕以辟魅、伏熊枕以宜男、亦服妖也」(韋皇后の妹の韋七姨〈後に嗣虢王李邕妻〉が魔除けのため白沢の枕を使用したことをいう。もとは唐の張鷟『朝夜僉載』にある話[18])
- 『白沢図』『白沢図考』(いずれも逸書であり現存しない。『玉函山房輯佚書』に諸書の引用する『白沢図』の逸文を集めてある[13])
- 清の劉璋の『斬鬼伝』:鍾馗の乗り物として[19]。


