石橋和訓

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石橋和訓(1917年の写真)[1]

石橋 和訓(いしばし かずのり[2]/わくん[2]1876年明治9年〉6月6日 - 1928年昭和3年〉5月3日[3])は日本の日本画家洋画家。英国ロイヤル・アカデミー初の日本人学生[1]。代表作に『美人読詩』や松方正義渋沢栄一大隈重信らの肖像画がある[1]

「和訓」の読みは「かずのり」だが「わくん」とも呼ばれる[2]。「かずよし」とする文献もある[4]。幼名は倉三郎[3]。師の滝和亭の一字をもらい27歳で改名[5]画号は耕雲[4]、雅原[5]、中雅[4]

1876年、島根県飯石郡西須佐村(現・出雲市佐田町反辺)の農家石橋熊三郎とマツの間に生まれる[5]。幼少から画才に秀で、須佐建真須佐神社祠官)と永瀬雲山から南画を学ぶ[5]。1892年、松江に出て後藤魚洲堀櫟山小豆沢亮一門下)から南画・洋画を学ぶ[5]

1893年、上京して千家尊福邸に書生として寄寓[5]本多錦吉郎に洋画を学んだ後、千家尊福や松平直亮の推薦で南画家滝和亭塾に入門、愛弟子となる[5]。1897年、広島第5師団野戦砲兵第5連隊に入隊、1900年、義和団事件に従軍[5][3]。1901年、滝和亭の死に伴い「和訓」に改名[5]

1903年、渡英(中條精一郎井上匡四郎三土忠造とともに小笠原長幹上杉憲章の留学随行員という名目)[5]ロイヤル・アカデミー・スクールの入試に合格し、同校初の日本人学生となる[6]ジョン・シンガー・サージェントソロモン・ジョセフ・ソロモンらに西洋伝統の油彩画を学びつつ、英国で南薫造高楠順次郎高村光太郎下村観山白滝幾之助富本憲吉アーサー・モリソンレナード・ヒル英語版フランク・ベレスフォード英語版レナード・メリフィールド英語版らと交流する[6][7]。1910年、日英博覧会に『美人読詩』(1906年画)などを出品する[8]

1918年、帰国、1920年、再渡英、1923年、再帰国[3]渋谷常磐松にアトリエを構え、帝展審査員も務めたが、1928年、51歳のとき病没した[3][9]

生涯を通じて、松方正義犬養毅大隈重信渋沢栄一徳川家達若槻礼次郎後藤新平東郷平八郎江原素六澤柳政太郎岡倉由三郎らの肖像画を描いた[9][1]松方コレクションの形成にも関与した[10]

没後は忘れられた画家となったが、徐々に研究が進み、2026年に島根県立美術館で初の回顧展が開かれた[11]

ギャラリー

脚注

参考文献

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