石橋和訓
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「和訓」の読みは「かずのり」だが「わくん」とも呼ばれる[2]。「かずよし」とする文献もある[4]。幼名は倉三郎[3]。師の滝和亭の一字をもらい27歳で改名[5]。画号は耕雲[4]、雅原[5]、中雅[4]。
1876年、島根県飯石郡西須佐村(現・出雲市佐田町反辺)の農家石橋熊三郎とマツの間に生まれる[5]。幼少から画才に秀で、須佐建真(須佐神社祠官)と永瀬雲山から南画を学ぶ[5]。1892年、松江に出て後藤魚洲と堀櫟山(小豆沢亮一門下)から南画・洋画を学ぶ[5]。
1893年、上京して千家尊福邸に書生として寄寓[5]。本多錦吉郎に洋画を学んだ後、千家尊福や松平直亮の推薦で南画家滝和亭塾に入門、愛弟子となる[5]。1897年、広島第5師団野戦砲兵第5連隊に入隊、1900年、義和団事件に従軍[5][3]。1901年、滝和亭の死に伴い「和訓」に改名[5]。
1903年、渡英(中條精一郎・井上匡四郎・三土忠造とともに小笠原長幹・上杉憲章の留学随行員という名目)[5]。ロイヤル・アカデミー・スクールの入試に合格し、同校初の日本人学生となる[6]。ジョン・シンガー・サージェント、ソロモン・ジョセフ・ソロモンらに西洋伝統の油彩画を学びつつ、英国で南薫造、高楠順次郎、高村光太郎、下村観山、白滝幾之助、富本憲吉、アーサー・モリソン、レナード・ヒル、フランク・ベレスフォード、レナード・メリフィールドらと交流する[6][7]。1910年、日英博覧会に『美人読詩』(1906年画)などを出品する[8]。
1918年、帰国、1920年、再渡英、1923年、再帰国[3]。渋谷常磐松にアトリエを構え、帝展審査員も務めたが、1928年、51歳のとき病没した[3][9]。
生涯を通じて、松方正義・犬養毅・大隈重信・渋沢栄一・徳川家達・若槻礼次郎・後藤新平・東郷平八郎・江原素六・澤柳政太郎・岡倉由三郎らの肖像画を描いた[9][1]。松方コレクションの形成にも関与した[10]。
