石黒四郎
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愛知県知多郡河和町(現・美浜町)出身。1930年(昭和5年)高等試験外交科合格。1931年(昭和6年)に東京商科大学(現一橋大学)を卒業して、外務省に入省し、在英国大使館や外務省東亜局第一課で勤務した[2]。
1938年(昭和13年)から在中華民国大使館三等書記官及び在上海領事を務め[3]、上海ユダヤ避難民に関し、犬塚惟重海軍大佐、安江仙弘陸軍大佐と現地調査会で調査を行い、上海ゲットーの整備などを進めた[4][5]。1942年(昭和17年)在中華民国大使館二等書記官[6]。1943年(昭和18年)在中華民国大使館一等書記官[7]。
1947年(昭和22年)経済安定本部総裁官房連絡部長[8]。1948年(昭和23年)連絡調整中央事務局第二部長[9]。1949年(昭和24年)外務省特殊財産局長[10]。同年賠償庁特殊財産部長[11]。同年賠償庁次長[12]。1951年(昭和26年)在サンパウロ日本政府在外事務所所長[13]。1952年(昭和27年)在サンパウロ総領事[14]。1956年(昭和31年)駐イラク特命全権公使[15]。1957年(昭和32年)兼駐ジョルダン特命全権公使[16]。
1959年(昭和34年)3月17日、皇居に参内し、昭和天皇にイラクの情勢について進講を行う[17]。同年駐ニュー・ジーランド特命全権大使[18]。1965年(昭和40年)駐メキシコ特命全権大使[19]。1966年(昭和41年)兼駐グァテマラ特命全権大使[20]。在任中の1968年(昭和43年)に病気のため死去し、グスタボ・ディアス・オルダスメキシコ大統領から昭和天皇に御弔電がなされた[21][22]。従三位勲二等旭日重光章[23]、正三位[24]。
出典
- ↑ 『人事興信録 第24版 上』(人事興信所、1968年)い210頁
- ↑ 人事興信録 第15版 上
- ↑ 官報 1938年03月05日
- ↑ 関根真保日本は戦時上海のユダヤ人を「救った」のか、それとも「見捨てた」のか 海軍大佐・犬塚惟重の言動から現代中国研究Vol. No. 39
- ↑ 山本尚志レオニード・クロイツァー追考 : ヨーロッパ在住時代の記録と日本亡命後のユダヤ避難民救出計画学習院高等科紀要 14 183-208, 2016-11-01
- ↑ 官報 1942年04月04日
- ↑ 官報 1943年07月15日
- ↑ 官報昭和22年本紙第6139号 17頁
- ↑ 官報昭和23年本紙第6329号 113頁
- ↑ 官報昭和24年本紙第6712号 3頁
- ↑ 官報昭和24年本紙第6716号 54頁
- ↑ 官報昭和24年本紙第6880号 223頁
- ↑ 官報昭和26年本紙第7430号 281頁
- ↑ 旧総領事公邸がピカピカに=文化施設として生まれ変わり=二宮、大原両氏が建物来歴を証言ニッケイ新聞
- ↑ 官報昭和31年本紙第8889号 298頁
- ↑ 官報昭和32年本紙第9046号 403頁
- ↑ 宮内庁『昭和天皇実録第十二』東京書籍、2017年3月28日、596頁。ISBN 978-4-487-74412-1。
- ↑ 官報昭和34年本紙第9665号 248頁
- ↑ 官報昭和40年本紙第11621号 23頁
- ↑ 官報昭和41年本紙第11747号 21頁
- ↑ 官報昭和43年本紙第12488号 13頁
- ↑ 官報昭和43年本紙第12485号 14頁
- ↑ 官報昭和43年本紙第12495号 17頁
- ↑ 官報昭和43年本紙第12496号 12頁
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| 在リオデジャネイロ総領事 | |
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| 在サンパウロ総領事 |
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| 全権公使(バグダード/ベイルート駐在) | |
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| 全権大使(ベイルート駐在) | |
| 名誉領事(アンマン駐在) | |
| 全権大使(アンマン駐在) | |
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| 全権公使 | |
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| 全権大使 |
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| 全権公使 | |
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| 全権大使 |
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| 全権公使(ワシントンD.C.駐在) | |
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| 全権公使(メキシコシティ駐在) | |
| 全権大使(メキシコシティ駐在) |
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