程名振

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程名振(?―662年)、洺州平恩(現在の河北省曲周県)出身。唐朝初期の官吏、将軍である。貞観の末年に、たびたび唐と高句麗との戦いに従軍し、いずれも寡兵をもって衆を撃ち破り、名将と称された。

程名振は、大業末年に河北の軍閥・竇建徳の普楽県令(現在の河北省鶏沢県)を務め、武徳初年に唐朝に帰順した。李淵から遥任で永年令(唐が普楽を永年と改称)に任じられ、引き続き河北諸県の経略を指揮した。程名振は軍を率いて夜襲で鄴県(現在の河北省臨漳県)を攻め、男女千余人を捕虜とした。鄴県から八十里離れた地点で、捕虜の中に乳汁の出る婦人九十余人がいるのを見て、家中に乳児が待っていると考え、彼女らをすべて鄴県に帰還させた。この行為は鄴県の人々の好感を得、解放された者たちは斎を設けてその恩に報いた。武徳4年(621年)、竇建徳が唐軍に敗れると、程名振は正式に永年県令に任じられた。

同年7月、竇建徳の残党・劉黒闥が貝州漳南で挙兵し、唐朝の山東道行台・淮安王李神通、黎州総管李世𪟝が相次いで敗北。12月には洺州(永年は洺州の州治所在地)が陥落し、程名振は刺史の陳君賓とともに西へ逃れて長安に帰還したが、逃亡途中で程母の潘氏と程妻の李氏が敵軍に捕らえられた。

翌年、唐朝は天策上将・秦王李世民を将帥として劉黒闥討伐軍を派遣し、程名振はこれに従軍した。唐朝の幽州総管羅芸は幽州から劉軍の定・欒・廉・趙の四州を攻撃し、李世民軍と洺州で合流して挟撃するよう命じられた。唐と劉の両軍は洺水のほとりに陣を構えて対峙し、劉軍は繰り返し挑戦したが、唐軍は堅く守りを固めて出撃しなかった。当時、劉軍は冀・貝・滄・瀛などの州から水陸で糧食を輸送し、洺州に供給していた。程名振は河北出身者として、千余人の軍勢を率いて劉軍の糧食輸送部隊を攻撃し、その舟車と糧秣を全て破壊するよう命じられた。劉黒闥はこれを聞いて激怒し、程名振の母と妻を処刑した。

3月26日、李世民は洺水で劉黒闥を大破し、劉は敗残兵を率いて突厥に逃亡した。7月、劉は突厥を引き連れて河北の定州に侵入し、再び河北を占拠した。唐朝は皇太子李建成と齊王李元吉を将帥として派遣し、12月に魏州で決戦。劉黒闥は敗北して逃亡したが、配下の将領・諸葛徳威の裏切りにより捕らえられ、唐軍に降伏した。程名振は母と妻の仇を討つため、自ら劉黒闥を斬り、その首級を母の霊前に捧げることを請願した。劉黒闥平定の論功行賞において、程名振は功績により営州都督府長史に任じられ、東平郡公に封じられ、絹織物二千段と黄金三百両を賜った。後に洺州刺史に転任した。

貞観18年(644年)、太宗が遼東の高句麗征伐を企図すると、程名振がかつて営州で職務に就いていたことを考慮し、経略の方法について尋ねた。程名振の才知と機転は太宗の賞賛を引き出し、「卿には将相の器量がある。朕はこれから任用しよう」と述べた。程名振は礼を失して跪いて謝恩しなかったため、太宗は不快に思い、「山東の鄙びた者よ、刺史を得て、富貴の極みと思ったのか!天子の側で言葉遣いが粗雑な上、さらに拝礼もせぬとは!」と責めた。程名振は罪を請い、「未熟な臣は、これまで聖なるお尋ねを直接承ったことがなく、ただ対応を考えていたため、拝礼を忘れてしまいました」と答えた。その挙措は泰然自若としており、応対はますます落ち着きを増した。太宗は感嘆して言った。「房玄齢は朕の側に二十余年いるが、朕が他人を責めるのを見るたび、顔色を失う。名振は平生朕に会ったこともないのに、朕が一度責めたとしても、少しも震えず、言葉の筋道も乱れぬ。真の奇士である!」即日、右驍衛将軍に任じ、行軍総管となり、平壤道行軍大総管・鄖国公張亮の麾下に属して莱州から海路で平壤を直撃した。

645年5月、張亮が軍を率いて遼東半島に上陸すると、程名振は先鋒として卑沙城(現在の遼寧省大連市金州区大黒山上に所在)へ進軍した。城は四面が絶壁で、西門のみに攻撃路があった。程名振は軍を督励して夜襲をかけ、副将の王文度が真っ先に城壁を登り、唐軍が続いて突入。高句麗守備軍は潰走し、卑沙城は陥落、男女八千人を捕虜とした。その後も独山陣を破るなど、常に寡兵をもって衆を撃ち破り、唐軍の名将と称された。

唐高宗永徽6年(655年)、程名振は営州都督兼東夷都護(契丹・奚・靺鞨などの諸族を管轄)に任じられた。同年、百済が高句麗・靺鞨の連合軍とともに新羅を攻撃すると、新羅王・金春秋は唐に救援を求めた。2月、唐朝は程名振に左衛中郎将の蘇定方、副将の薛仁貴とともに高句麗征伐を命じ、3月に高句麗軍を貴端水で破り、3千級を斬首するとともに貴端城を焼き払った。その後、晋州刺史・蒲州刺史を歴任した。

龍朔元年(661年)、唐軍は兵部尚書の任雅相・左武衛大将軍の蘇定方・左驍衛大将軍の契苾何力を大総管とし、再び大規模な遼東征討を行った。程名振は鏤方道行軍総管に任じられたが、いずれも大きな戦果なく帰還した。

龍朔2年(662年)、程名振は死去した。右衛大将軍を追贈され、諡は烈とされた。

子に程務挺・程務忠、孫に程齊之がいる。

評価

李世民:卿には将相の器量がある。…名振は平生朕に会ったこともないのに、朕が一度責めたとしても、少しも震えず、言葉の筋道も乱れぬ。真の奇士である![1]

『唐書志傳』:程名振は用兵に長ける。[2]

逸話

列人堤は、県の北東二十里に位置する。列人埤とも称される。後魏の孝昌年間、地中から破損した船が発見されたことから、漳水が長年堆積を重ね、深かった谷も高い岸辺となったことが窺える。唐の太宗が肥郷に進軍し、劉黑闥を牽制した際、程名振が六十具の太鼓を城西の列人堤上に運び急撃させると、大地が震動したという。范曄の『漢書注』には「列人県の故城は、現在の洺州肥郷県の北東にある」と記されている。[3]

演義小説中の程名振

伝記資料

脚注

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