蘇定方
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蘇邕の子として生まれた。隋末に蘇邕は郷里の数千人を率いて叛乱の討伐にあたった。定方は15歳で父の下で従軍し、しばしば先頭に立って敵陣を陥落させた。蘇邕が死去すると、代わってその部衆を引き継ぎ、劇県の叛乱軍の張金称・楊公卿らを撃破し、20里あまり追撃して多くの者を殺し、また捕らえた。このため叛乱軍は郡境を犯さなくなり、郷党はかれを頼りにした。のちに竇建徳の麾下に入り、竇建徳の部将の高雅賢に気に入られて、高雅賢の養子となった。高雅賢と劉黒闥が死ぬと、定方は郷里に帰った。
唐の貞観初年、匡道府折衝となり、李靖の下で二百騎を率いて突厥を攻撃する先鋒をつとめ、霧の中で牙帳を襲撃した。突厥の頡利可汗は狼狽して逃亡し、李靖がまもなく到着すると、取り残された突厥の一党はことごとく降伏した。凱旋すると、定方は左武候中郎将に任ぜられた。永徽年間に左衛勲一府中郎将に転じた。程名振とともに高句麗を攻撃(唐の高句麗出兵)して、これを破った。右屯衛将軍に任ぜられ、臨清県公に封ぜられた。
顕慶元年(656年)、程知節に従って前軍総管をつとめ、阿史那賀魯を攻撃し、鷹娑川にいたった。阿史那賀魯が2万騎を率いて対陣すると、定方は総管の蘇海政とともに連戦したが決着をつけることができず、突厥の別部の鼠尼施らが2万騎を率いて敵方に来援した。定方は騎兵の精鋭500を率いて、山嶺を越えて敵陣に討ち入ると、これを大いに破り、1500人あまりを殺害し、多くの武具や牛馬を鹵獲した。唐の軍中では副大総管の王文度が味方の疲労と士気の低下を見て深入りを諫め、定方は追撃を主張して争った。程知節が怛篤城にいたり、胡人を降伏させると、王文度は降胡を殺して財貨を奪うことを主張し、定方はこれに反対した。王文度は聞き入れず、財貨を分配したが、定方はひとつも取ることがなかった。高宗がこのことを知ると、程知節らが帰還した後、王文度を庶民に落とした。
顕慶2年(657年)、定方は伊麗道行軍大総管に抜擢され、再び阿史那賀魯を攻撃した。任雅相と回紇の婆閏が副大総管をつとめた。定方はアルタイ山の北に出て、処木昆部を撃破し、俟斤の嬾独禄を降した。定方は麾下の1000騎と回紇の1万人を率いて曳咥河に進軍した。阿史那賀魯は大軍を率いて会戦し、定方の兵が少ないのをみて、左右両翼を伸ばして包囲しようとした。定方は歩兵に高所に拠らせ、自らは精鋭の騎兵を率いて北原に陣した。阿史那賀魯の軍は三たび唐の歩兵の陣を突き崩そうとしたが崩すことができず、定方は乱戦に乗じて騎兵で三十里をめぐって戦うと、阿史那賀魯の軍は崩れて潰走にうつり、唐軍が追撃すると数万の人馬を殺した。翌日、定方が兵を進軍させると、五弩失畢が部族こぞって唐に降伏し、阿史那賀魯と処木昆の屈律啜の数百騎は西方に逃走した。定方は副将の蕭嗣業と回紇の婆閏に邪羅斯川に向かわせて追撃させ、定方と任雅相は新たに帰順した兵をまとめて、後詰めに続いた。大雪にあって、軍吏に進軍の中止を求められたが、定方は強引に兵を雙河まで進め、阿史那弥射や阿史那歩真の軍と合流して阿史那賀魯の陣に迫った。阿史那賀魯は油断して狩猟の最中であり、定方はこれを襲撃して破った。阿史那賀魯はさらに石国に逃れたが、阿史那弥射の子の阿史那元爽が蕭嗣業と合流して、阿史那賀魯を捕縛した。これにより唐の勢力圏は中央アジアに広がった。定方は功績により左驍衛大将軍に任ぜられ、邢国公に封ぜられた。また、子の蘇慶節も武邑県公に封ぜられた。
顕慶4年(659年)、思結闕俟斤都曼が諸部を扇動し、疏勒・朱倶波・渇槃陀の三カ国が唐に叛くと、定方は安撫大使となって討伐にあたった。兵を率いて葉葉水にいたり、都曼が馬頭川を守ると、定方は歩兵の精鋭1万と騎兵3000を選抜して、昼夜分かたず三百里を駆け抜け、都曼の陣の前に現れると、都曼は驚いて、戦うこともなく城に逃げ込んだ。唐軍がこれを攻めたてると、都曼は窮迫して、自らを縛って降伏した。こうしてパミール高原より西の地方も唐の勢力圏に入った。定方が捕虜を乾陽殿に献上すると、邢州鉅鹿県の三百戸の食邑を加えられ、左武衛大将軍に転じた。
顕慶5年(660年)、熊津道大総管となり、軍を率いて百済の征討にあたった。城山から海をわたって熊津口に上陸した。沿岸の百済軍を撃破して真都城に進軍すると、百済の主力と決戦して勝利をおさめた。百済王扶余義慈や太子の扶余隆は北方に逃走した。定方が泗沘城を包囲すると、扶余義慈の子の扶余泰が自立して王を称した。扶余泰は抗戦を続けようとしたが、扶余義慈は開門して降伏することを決意して、扶余泰はこれを止めることができなかった。百済の将軍の禰植と扶余義慈は唐軍に降り、扶余泰も捕らえられ、ここに百済は平定された。扶余義慈や扶余隆・扶余泰らは東都洛陽に送られた。
定方は三カ国を滅ぼし、いずれもその王を捕らえたため、賞与の珍宝は数えきれず、子の蘇慶節は尚輦奉御の位を加えられた。まもなく定方は遼東道行軍大総管となり、また平壌道行軍大総管に転じた。高句麗の軍を浿江で破り、馬邑山の敵営を落とし、平壌を包囲した。大雪に遭って、包囲を解いて帰還した。涼州安集大使に任ぜられて、吐蕃や吐谷渾とも戦った。乾封2年(667年)に76歳で死去すると、高宗はかれの死をいたんで、左驍衛大将軍・幽州都督の位を追贈した。諡を荘といった。
評価
許敬宗:唐の将軍で武勇に優れた者は、蘇定方と龐孝泰だけである。曹継叔と劉伯英は両者には及ばない。
李治:蘇定方は国家に功績を立てた。慣例に照らせば褒賞と追贈を受けるべきところ、卿ら(臣下たち)が何も奏上しなかったため、死後の栄誉が及ばぬままとなった。このことを言い出すと、思わず嘆き悲しむ思いだ。
魏元忠:臣が聞くところによれば、帝王の道は、経略を重んずることを務めとし、経略の術は必ず英奇(優れた英才)に依拠するのだと。わが国家の良将を見れば、これは明らかである。李靖は突厥を破り、侯君集は高昌を滅ぼし、蘇定方は西域を開拓し、李勣は遼東を平定した。これらは確かに国の威霊に依るものではあるが、彼ら自身の才力によるものでもある。古語にこうある。「人に常の俗はなく、政に理乱あり、兵に強弱はなく、将に能否あり」と。これによって見れば、辺境を安定させ、功名を立てることは、良将にかかっているのである。
杜祐:本朝において、李靖は突厥を平定し、李勣は高句麗を滅ぼし、侯君集は高昌を覆し、蘇定方は百済を討ち平らげた。また、李敬玄・王孝傑・婁師徳・劉審礼らはいずれも卿相の身でありながら兵を率いて戎狄(異民族)を防ぎ、戎が平定されると軍を返し、いずれも長く辺境に駐留することはなかった。
劉昫:邢国公(蘇定方)の神算たる謀略は伸縮自在、雄大な計略は叛乱を鎮定し、国の艱難を輔けて平定し、初めから終わりまで偉業を成し遂げた。しかしながら、領地の分封と官位の昇進は、盛大な典礼を十分に受けられず、まさに欠落していると言わざるを得ない。
宋祁:唐が夷狄の荒遠の地に威を振るい、領土を大きく拡張することができたのは、また虎の如き勇将がその牙と爪となったからである。その遠征は数千万里に及び、辺境の果てまで征討し、戦いを繰り広げ、敵国をまるで鹿や猪を狩るように攻略した。まさに適材を得ていたと言うべきであろう。
曾公亮:蘇定方は驍勇で悍ましく、力が常人よりはるかに優れていた。
陳元靚:邢国公(蘇定方)は外敵を防ぎ払い、その勢いは咆哮する虎の如し。生け捕りにした都曼、追い払った賀魯。そして百済を平定し、攻める戦いは全て勝利した。敵国を討つ功績は、千古に燦然と輝いている。
黄道周:蘇子定方は、少年の頃より驍勇であった。郷里が賊に襲われた時、彼のおかげで恐れることはなかった。突厥征伐に従軍し、霧に乗じて一気に突撃。斬り伏せる敵は数知れず、降伏する者は後を絶たなかった。賀魯を再征した際、槊を並べて突撃する様は格別に猛烈。大雪も休むことなく、敵をほぼ絶滅寸前まで追い詰めた。その後、諸敵を襲撃するや、三路から雲のごとく押し寄せた。敵は自ら縄目を受けて降伏し、捕虜は宮殿の階に献じられた。法に照らせば処刑されるべきであったが、恩寵を懸命に乞うた。これにより、葱嶺以西の地は、唐朝に恭順の意を示したのである。
光緒帝:古来、天下を統一した大帝国は必ず万年の計を立てるものである。西は葱嶺を越え、漢は「鑿空(さっくう)の官」(西域開拓の使者)を通じさせた。北は金山を境とし、唐は北庭都護府を設置した。輪台に屯田兵を置き、烏孫を外側に整え、金満に城を築き、遠く伊列まで収めた。これら一連の経営方略について、概略を述べることができるだろうか。蘇定方が沙鉢羅(サバル)を討ち、速不台(スブタイ)が默爾奇(メルキ)を追い詰めたことは、まさにその功業の表れである。
金庸:『説唐』のような小説は、歴史的事実とは大きく異なっています。例えば、歴史上の蘇定方は優れた大将軍であり、多くの見事な戦いを勝利に導きました。しかし『説唐』が最も歪曲している点は、蘇定方のような名将を悪人として描いていることで、全く正しくありません。
人物論争
烏海の戦い
敦煌莫高窟で発見されたチベット文『吐蕃大事紀年』第十条によれば、チベット暦羊年(唐の高宗顕慶四年、西暦659年)に、蘇定方が青藏高原の烏海(ウハイ)一帯で吐蕃軍と交戦したという。この戦争は唐側の史料には記録されていない。[1][2]C. I. ベックウィズは、この戦役が『資治通鑑』巻200に記される論欽陵による吐谷渾攻撃と同じ戦いであると推測しているが、年代に混乱がある。才譲の『吐蕃史稿』では659-660年について吐蕃の吐谷渾進攻のみ記し、唐との交戦には触れていない。学者間でのこの戦役に関する史料解釈(場所、勝敗、兵力など)は一致を見ておらず、王堯は「唐軍一千が吐蕃軍八万を撃破した」と解釈し、ゲンドゥン・チュンペの『白史』では「吐蕃軍一千が唐軍八万を破った」と解釈している。黄正建は、『吐蕃大事紀年』は吐蕃の敗戦を記録しない慣例があり、かつ漢文文献に蘇定方が当年吐蕃と交戦した記録がないことから、おそらくは「吐蕃軍八万が唐軍一千に勝利した小規模な戦闘」であったと主張する。達延莽布支(ダエンマンブチ)の身分について、胡小鵬は烏海一帯の親吐蕃的な吐谷渾首領であるとし、王忠は鄯善駐留の慕容尊王であるとする。[3][4][5][6]『吐蕃地名研究』も、いわゆる「烏海東茹(ウハイ・ルンル)」は実際には唐朝隴右道付近の孟達天池、すなわち「東茹措那(ルンル・ツォナ)」にあったと論じている。『道帏藏族社区志』には、「達延莽布支大臣が吐蕃軍を率いて董岱措納湖(冬日措納)一帯へ赴き、漢兵(唐軍)と交戦したが、達延莽布支は不幸にも戦死した。部下は彼を追悼し、アニ・ダエン山に葬った。その後、達延莽布支は山神として崇められるようになり、同時に霊力を持つ郷土の守護神となった」と記されている。
死因
史書には蘇定方の没年は記録されているものの、死因については言及がなく、後世において彼の死には諸説ある。『三国遺事』が引用する『新羅古伝』によれば、蘇定方は新羅の大将・金庾信によって鴆毒(鳩を用いた毒殺)に斃れたとされる。[7]
しかし、拜根興教授は以下の点を指摘する。当時の蘇定方の身分と、金庾信の新羅統治層および軍部における地位を考慮すれば、毒殺事件は重大な政治的衝撃を与え、持続的な反響を生んだはずである。しかしながら『三国史記』の金庾信伝にはこの事件に関する記載が一切ない。さらに同伝では李勣(イ・ギル)も同様に「鴆殺された」とされているが、実際には李勣は唐領へ無事帰還している。これらの矛盾から、「蘇定方暗殺説」は根拠のない俗説と言える。拜根興教授は、蘇定方が当時高齢であったことに加え、西北吐蕃戦線の緊迫した情勢と過酷な自然環境を考慮し、病死の可能性が高いと結論付けている。[8][9]
人物・逸話
蘇定方は人材を発見し、育成することに長けていた。若き日、才徳兼備の青年・裴行儉に出会った際、「我が用兵、世に教うべき者なし。今、子は賢なり」と感嘆し、ありったけの知識を授けて、自らの用兵の奇術をすべて裴行儉に伝授した。[10]
虎岩より流れに従って南へ下り、扶蘇山の麓に至ると、一つの怪石が江の渚の岩に跨がっている。石面には龍が爪跡を残したとされ、言い伝えによれば蘇定方が百済を征伐した際、江岸に臨んで渡河を図ったところ、突然暴風雨が起こった。そこで白馬を餌として龍を釣り上げ、瞬く間に天候が晴れ渡ったため、軍勢を渡して征伐したという。故にこの江を「白馬江」、岩を「釣龍台」と呼ぶようになった。十八世紀朝鮮の学者・李徳懋の詩『客中にて曾若の白馬江に遊ぶに逢う』には、この典故が引用されている「瑟碧たる寒江 客舟を漾わし、済王宮樹 秋を禁じえず。只だ縁り 当日 龍馬に耽るを、唐将の靴痕 石上に留む」。[11]
藏軍洞は県北九里に位置し、太祖峰と相対す。その間に大道あり、洞門は曲折狭小にして、行人之を見れば洞の存在を疑わんばかりなり。深く其の中に入れば、極めて広闊にして、万余の兵を収容し得。世に伝わる唐の将軍・蘇定方が百済を征伐した際、ここに兵を潜ませたという故事により、この名を以て号す。[12]
後世信仰
『高麗史』『世宗実録』などの文献によると、「唐の蘇定方の祠堂は大岑島にある。春と秋に香祝を降し祭りを致す」と記載されている。[13]
蘇都督祠が高麗時代から朝鮮時代まで存続していた事実は、各種書院関連史料のほとんどに明確に記録されている。『俎豆録』には「高麗時代から蘇定方を祭祀してきた」と記載され、『増補文献備考』にも蘇都督祠宇が掲載されており、『東国院宇録』には「蘇都督祠は大興にあり、蘇定方を専ら祭祀する」とはっきり記されている。さらに、金正浩の『大東地志』「大興県蘇都督祠」の条には「蘇都督祠の祠宇は大岑島にあり、高麗時代から春秋に香祝を頒布・降下して祭祀を行った」と記され、大岑島に祠宇が存在した事実を明確に記録している。文献によれば、同祠は明らかに朝鮮後期まで存続していたが、大院君の書院・祠宇撤廃令によって蘇都督祠が破却されたことが分かる。ただし、その具体的な位置や沿革を確認できる資料はまだ発見されていない。蘇都督祠の旧跡と推定される中丹村の遺跡は約千余坪(約3,301㎡)に及ぶ広い区域であり、村人の話によると、祠の跡と推定される場所から10棟分にも相当する大量の礎石と瓦が発見されているという。現在でも8~9個の礎石と瓦の破片が散在しており、それらの年代は高麗時代から朝鮮末期にまで及んでいる。[14]
軍威三将軍祭(군위삼장군제)
慶尚北道軍威郡孝霊面将軍里において、毎年旧暦五月端午に行われる村の共同祭祀。将軍里の西側にある三井山(さんせいざん)は将軍峰または将軍台と呼ばれ、その頂上には三位の将軍を祀る「三将軍堂」が建てられている。三位の将軍は、新羅の金庾信将軍、唐の蘇定方将軍、そして李茂将軍である。この祠堂は現地では通常「将軍堂」と呼ばれ、文献には「金庾信祠」「孝霊祠」または「三将軍堂」との記録も散見される。[15]
三位将軍は、660年(武烈王7年)に三国統一の第一歩となった羅唐連合軍による百済攻めと深く関連している。地元に伝わる由来によれば、新羅は三国統一のために唐に援軍を要請した。唐は直ちに援軍を派遣し、その主将は蘇定方、副将は李茂であった。彼らが新羅に到着する直前、新羅は金庾信将軍に多くの軍勢を率いて出迎えに向かわせた。金庾信将軍は将軍里の広々とした野原で唐軍と合流した。羅唐連合軍は孝霊で一時滞在し、三位の将軍は将軍峰に指揮部を設け、百済攻めの作戦計画を立てた。三国統一の大業を成し遂げた後、三位の将軍は再び孝霊を通り、将軍峰に登り、「三国は既に統一された、安心して暮らせ」と大声で宣言して去っていった。その後数百年の間、人々は次第に三位の将軍のことを忘れていった。しかし、高麗後期のある時から、将軍峰の近くで奇妙な現象が起きるようになった:馬に乗って通りかかると、馬の蹄が地面に貼り付いて上がらなくなるのである。そこで、村人たちは将軍峰の下に下馬碑を立て、乗馬者は必ず下馬するよう定めた。さらに、将軍峰の頂上付近に近づく人や家畜は、次々と災難に遭うようになった。村人たちは不審に思い、原因を探った結果、三位の将軍が三国を統一して民に平和な暮らしをもたらしたのに、民は感謝もせず、一度も祭祀を捧げたことがなかったことに気づいた。そこで、早くからこの村に定住していた司空氏が国に上疏し、最終的に国の命により三将軍堂が建立され、毎年5月の端午の節句に、官民一体となって共同で祭祀を行うことが定められた。三将軍祭は19世紀後期まで受け継がれた。端午の当日は、早朝から人々が集まり、神迎えの行列が行われた。県衙の先頭の役人が馬に乗って先導し、人々は五色の旗を掲げ、馬が運ぶ大太鼓をドンドンと鳴らしながら、通りを練り歩いた。神迎えの行列が終わると、一同で将軍堂に登り、三位の将軍に厳粛な祭祀を執り行った。祭祀が終わると、銅鑼、鉦、太鼓、小太鼓を打ち鳴らし、祝賀行事を行った。この時、三位の神を奉じて神遊びの行列が続けられた。19世紀後期に入ると、旧暦の正月十五の祭祀が加わり、一般の洞祭の性質を帯びるようになった。この頃、官府による堂祭への支援は途絶え、18世紀後期に仏労里に移住した金海金氏が祭祀に本格的に介入するようになった。祭礼は、金庾信将軍の子孫を自称し、祭祀権を主張する金海金氏が担当し、風物や神迎えなどの神を楽しませる行為は、近隣の村の司空氏を中心とする住民が担った。この頃、祭礼には享祀的な性質を帯びた笏記が現れ、民俗信仰的な儀礼活動が次第に変容する契機となった。1920年代、日本の植民地支配による干渉が強まるにつれ、祭祀の規模は極度に縮小された。そして、祭祀の主体が住民から金海金氏に移り、祭礼は最終的に享祠へと変貌した。1953年、金海金氏が将軍峰の下に建立した済東書院が完成すると、三将軍の神位を書院の崇武殿に移した。祭日も端午から3月の初丁の日に改められ、1981年からは3月3日に執り行われるようになった。[16]
