第2次吉田内閣
日本の内閣
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内閣の顔ぶれ・人事
国務大臣
一人内閣
1948年(昭和23年)10月15日任命[1]。在職日数5日。
| 職名 | 代 | 氏名 | 出身等 | 特命事項等 | 備考 | |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 内閣総理大臣 | 48 | 吉田茂 | 衆議院 民主自由党 |
外務大臣兼任 | 民主自由党総裁 | |
| 法務総裁 | - | 臨時代理 (内閣総理大臣兼任) | ||||
| 外務大臣 | 69 | |||||
| 大蔵大臣 | - | |||||
| 文部大臣 | - | |||||
| 厚生大臣 | - | |||||
| 農林大臣 | - | |||||
| 商工大臣 | - | |||||
| 運輸大臣 | - | |||||
| 逓信大臣 | - | |||||
| 労働大臣 | - | |||||
| 建設大臣 | - | |||||
| 国務大臣 経済安定本部総務長官 |
- | 事務取扱 (内閣総理大臣兼任) | ||||
| 国務大臣 物価庁長官 |
- | |||||
| 国務大臣 中央経済調査庁長官 |
- | |||||
| 国務大臣 賠償庁長官 |
- | |||||
| 国務大臣 行政管理庁長官 |
- | |||||
| 国務大臣 地方財政委員会委員長 |
- | (欠員) | ||||
| ||||||
国務大臣任命時
1948年(昭和23年)10月19日任命[2]。在職日数121日(通算125日。第1次、2次通算493日)。
| 職名 | 代 | 氏名 | 出身等 | 特命事項等 | 備考 | |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 内閣総理大臣 | 48 | 吉田茂 | 衆議院 民主自由党 |
外務大臣兼任 | 民主自由党総裁 | |
| 法務総裁 | - | 吉田茂 | 臨時代理 (内閣総理大臣兼任) |
1948年11月7日免兼 民主自由党総裁 | ||
| 3 | 殖田俊吉 | 民間 | 国務大臣兼任 | 1948年11月7日任[3] | ||
| 外務大臣 | 69 | 吉田茂 | 衆議院 民主自由党 |
内閣総理大臣兼任 | 民主自由党総裁 | |
| 大蔵大臣 | 54 | 泉山三六 | 衆議院 民主自由党 |
国務大臣兼任[注釈 2] | 初入閣 1948年12月14日免[注釈 3][4] | |
| - | 大屋晋三 | 参議院 民主自由党 |
臨時代理 (商工大臣兼任) |
1948年12月14日任[4] | ||
| 文部大臣 | 65 | 下条康麿 | 参議院 緑風会 |
初入閣 | ||
| 厚生大臣 | 17 | 林譲治 | 衆議院 民主自由党 |
内閣総理大臣臨時代理 (副総理) |
初入閣 | |
| 農林大臣 | 10 | 周東英雄 | 衆議院 民主自由党 |
国務大臣臨時兼任[注釈 2] | 初入閣 | |
| 商工大臣 | 31 | 大屋晋三 | 参議院 民主自由党 |
大蔵大臣臨時代理 | 初入閣 | |
| 運輸大臣 | 10 | 小沢佐重喜 | 衆議院 民主自由党 |
初入閣 | ||
| 逓信大臣 | 53 | 降旗徳弥 | 衆議院 民主自由党 |
初入閣 | ||
| 労働大臣 | 3 | 増田甲子七 | 衆議院 民主自由党 |
|||
| 建設大臣 | 2 | 益谷秀次 | 衆議院 民主自由党 |
初入閣 | ||
| 国務大臣 経済安定本部総務長官 |
4 | 泉山三六 | 衆議院 民主自由党 |
大蔵大臣、 国務大臣兼任[注釈 2] |
初入閣 1948年12月14日免[注釈 3][4] | |
| - | 周東英雄 | 衆議院 民主自由党 |
事務代理 (農林大臣兼任) |
1948年12月14日兼[4] | ||
| 国務大臣 物価庁長官 |
4 | 泉山三六 | 衆議院 民主自由党 |
大蔵大臣、 国務大臣兼任[注釈 2] |
初入閣 1948年12月14日免[注釈 3][4] | |
| - | 周東英雄 | 衆議院 民主自由党 |
事務代理 (農林大臣兼任) |
1948年12月14日兼[4] | ||
| 国務大臣 中央経済調査庁長官 |
2 | 泉山三六 | 衆議院 民主自由党 |
大蔵大臣、 国務大臣兼任[注釈 2] |
初入閣 1948年12月14日免[注釈 3][4] | |
| - | 周東英雄 | 衆議院 民主自由党 |
事務代理 (農林大臣兼任) |
1948年12月14日兼[4] | ||
| 国務大臣 行政管理庁長官 |
2 | 殖田俊吉 | 民間 | 法務総裁兼任 | 初入閣 1948年11月10日免[5] | |
| 3 | 工藤鉄男 | 衆議院 民主自由党 |
初入閣 1948年11月10日任[5] | |||
| 国務大臣 賠償庁長官 |
3 | 井上知治 | 衆議院 民主自由党 |
初入閣 | ||
| 国務大臣 地方財政委員会委員長 |
3 | 岩本信行 | 衆議院 民主自由党 |
初入閣 1949年2月10日免[注釈 4][6] | ||
| - | (欠員) | 1949年2月10日から | ||||
| 国務大臣 (無任所) |
- | 森幸太郎 | 衆議院 民主自由党 |
初入閣 | ||
| ||||||
内閣官房長官・内閣官房次長
政務次官
1948年(昭和23年)10月26日任命[12]。
| 職名 | 氏名 | 出身等 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 法務政務次官 | 田中角榮 | 衆議院/民主自由党 | 1948年11月29日免[注釈 6] |
| (欠員) | 1948年12月4日まで | ||
| 鍛治良作 | 衆議院/民主自由党 | 1948年12月4日任[13] | |
| 外務政務次官 | 近藤鶴代 | 衆議院/民主自由党 | |
| 大蔵政務次官 | 塚田十一郎 | 衆議院/民主自由党 | |
| 平岡市三 | 参議院/民主自由党 | ||
| 文部政務次官 | 栗山長次郎 | 衆議院/民主自由党 | |
| 小野光洋 | 参議院/民主自由党 | ||
| 厚生政務次官 | 庄司一郎 | 衆議院/民主自由党 | |
| 團伊能 | 参議院/民主自由党 | ||
| 農林政務次官 | 北村一男 | 参議院/民主自由党 | |
| 伊藤郷一 | 衆議院/民主自由党 | 1948年11月10日任[5] | |
| 商工政務次官 | 村上勇 | 衆議院/民主自由党 | |
| 小林英三 | 参議院/民主自由党 | ||
| 運輸政務次官 | 片岡伊三郎 | 衆議院/民主自由党 | |
| 加藤常太郎 | 衆議院/民主自由党 | ||
| 逓信政務次官 | 鈴木直人 | 参議院/緑風会 | |
| 労働政務次官 | 鈴木正文 | 衆議院/民主自由党 | |
| 竹下豊次 | 参議院/緑風会 | ||
| 建設政務次官 | 江崎真澄 | 衆議院/民主自由党 | |
| 赤木正雄 | 参議院/緑風会 | ||
| 経済安定政務次官 | 神田博 | 衆議院/民主自由党 | |
| 中川以良 | 参議院/民主自由党 | ||
| 地方財政政務次官 | 寺尾豊 | 衆議院/民主自由党 | |
勢力早見表
内閣の動き
1948年当時、日本政界は単独で過半数の議席を確保する政党のないハング・パーラメントの状態にあり、日本社会党(第一党)、民主党(第三党)、国民協同党(第四党)の三党が連立政権(片山内閣および芦田内閣)を組み、GHQ民政局の後見を得て社会主義的政策を推し進めた。しかし、容共的態度をとる社会党左派と民主党内の幣原喜重郎名誉総裁ら反社会主義勢力が対立した片山内閣は崩壊。芦田内閣として仕切り直しを図ると、元々反共的態度をとっていた民主自由党(第二党)とGHQ参謀第2部は反撃に出て、昭和電工事件で検察に圧力をかけて西尾末広副総理らを逮捕に追い込むと、芦田内閣も総辞職を余儀なくされる。民政局はそれでも民自党の吉田総裁の復権を阻止するべく、国民協同党・三木武夫委員長への禅譲や、民自党の山崎猛幹事長の脱党を画策するも不発に終わり(山崎首班工作事件)、1948年10月14日、戦前の憲政の常道に則り、吉田総裁が首班指名を受けて、第2次吉田内閣が発足する。
民自党は少数与党であったため、吉田首相は早期の衆議院解散総選挙を望むが、日本国憲法では衆議院解散の先例がなかったことから、吉田の政治力拡大を快く思わない民政局と旧連立与党はそれを利用して、解散の引き延ばしを図る。吉田内閣は、憲法7条(天皇の国事行為としての衆議院解散)を早期解散の根拠としたが、社会党の片山哲委員長は、民政局の示唆により、7条は天皇の儀礼的行為を定めたにすぎず、69条(内閣不信任による解散)以外で内閣が任意の時期での解散を決めるのは旧憲法の思想である、との声明を発出する[16]。
この対立は、民政局の勢力の後退と、吉田内閣の権力の安定化を望むダグラス・マッカーサーGHQ総司令官が吉田の肩を持ったことにより、形式的に内閣不信任案を可決させたうえで早期に解散総選挙を行うことで合意がなされる。優先して審議されていた国家公務員法改正案と新給与予算案が成立した後、12月23日に不信任案が成立して解散(馴れ合い解散)[17]。
1949年1月23日、第24回衆議院議員総選挙において民自党は過半数を獲得(定数466、民自党264)。2月16日、第3次吉田内閣が発足、日本は対米協調、独立回復へと進んでゆく。