第4次吉田内閣

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天皇 第124代 昭和天皇
内閣総理大臣 第50代 吉田茂
成立年月日 1952年昭和27年)10月30日
終了年月日 1953年(昭和28年)5月21日
第4次吉田内閣
国務大臣任命式後の記念撮影
(1952年10月30日)
天皇 第124代 昭和天皇
内閣総理大臣 第50代 吉田茂
成立年月日 1952年昭和27年)10月30日
終了年月日 1953年(昭和28年)5月21日
与党・支持基盤 自由党、(緑風会[注釈 1]
施行した選挙 第26回衆議院議員総選挙
第3回参議院議員通常選挙
衆議院解散 1953年(昭和28年)3月14日
バカヤロー解散
成立事由 第25回衆議院議員総選挙
終了事由 第26回衆議院議員総選挙
前内閣 第3次吉田第3次改造内閣
次内閣 第5次吉田内閣
内閣閣僚名簿(首相官邸)
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第4次吉田内閣(だいよじ よしだないかく)は、衆議院議員自由党総裁吉田茂が第50代内閣総理大臣に任命され、1952年昭和27年)10月30日から1953年(昭和28年)5月21日まで続いた日本の内閣

第4次内閣は大日本帝国憲法下での1900年明治33年)に伊藤博文明治天皇からの大命降下を受けて組閣した第4次伊藤内閣以来であり[1]日本国憲法下では初めてであった。また、この後第4次内閣を組閣した内閣は長らく存在しなかったが、65年後の2017年平成29年)に安倍晋三が第195回国会で首班指名を経て第4次安倍内閣を組閣した[1]

国務大臣

1952年(昭和27年)10月30日任命。在職日数204日(第1次、2次、3次通算2,050日)。
職名 氏名 氏名 出身 特命事項等 備考
内閣総理大臣 50 吉田茂 衆議院自由党 自由党総裁
国務大臣 緒方竹虎 衆議院自由党
副総理 1952年(昭和27年)11月28日-
法務大臣 2 犬養健 初入閣
外務大臣 72 岡崎勝男
大蔵大臣 56 向井忠晴 民間 初入閣
文部大臣 69 岡野清豪 衆議院自由党
厚生大臣 22 山縣勝見 参議院自由党
農林大臣 15 小笠原三九郎 衆議院自由党
16 広川弘禅 1952年(昭和27年)12月5日-- 3月3日付罷免
17 田子一民 1953年(昭和28年)3月3日--
通商産業大臣 6 池田勇人
7 小笠原三九郎 1952年(昭和27年)12月5日--(農林大臣から移職)
運輸大臣 14 石井光次郎 元商工大臣
郵政大臣 4 高瀬荘太郎 参議院緑風会 文部大臣
労働大臣 7 戸塚九一郎 衆議院自由党 初入閣
建設大臣 7 佐藤栄作
8 戸塚九一郎 労働大臣、北海道開発庁兼任
行政管理庁長官 10 本多市郎 衆議院昭和会
自治庁長官 2 兼務
保安庁長官 1 木村篤太郎 衆議院自由党
経済審議庁長官 3 池田勇人
4 小笠原三九郎 兼務

1952年(昭和27年)11月29日--

5 水田三喜男 1953年(昭和28年)3月3日--
北海道開発庁長官 4 佐藤栄作
5 戸塚九一郎 兼務

1953年(昭和28年)2月10日--

国務大臣 大野木秀次郎 参議院自由党
林屋亀次郎

内閣官房長官・副長官

政務次官

1952年(昭和27年)11月10日任命。

内閣の動き

1952年当時、日本の政界は自由党が第一党を占めていたが、その内側では、日本を独立回復へと導いた実績をもって政権の長期化を図る吉田首相と、公職追放の解除を受けて政権の禅譲を受けんとする鳩山一郎元総裁[注釈 2]との対立が起こる。1952年8月28日、吉田首相は前触れなく衆議院解散抜き打ち解散)、10月1日、第25回衆議院議員総選挙投開票、自由党は過半数を維持(定数466、自由党240)するが、鳩山元総裁ら追放解除組も政界復帰し、本格的に禅譲を要求するに至る[2]

選挙後の10月16日、鳩山元総裁は「自由党民主化四原則」を発し、反吉田の動きを見せる。

#私なら他党の協力を得られると思うが、吉田首班では政治的安定はない。#自由党は秘密独善を排し、民主主義を党の内外で発揮できる政党に生き返らねばならぬ。#独立第一歩にあたって吉田君は身を引くのが妥当である。#党の一体化は望むが、抜き打ち解散や河野・石橋君の除名[注釈 3]は、一本化を妨げるもので遺憾だ。

この動きに対して、財界より、自由主義政党による安定的な政権運営を求める働きかけが行われる。これを受けて、鳩山系の幹部"御三家"と称された林譲治益谷秀次大野伴睦の仲介により、23日、吉田首相が鳩山元総裁の四原則を了解することを言明したため、鳩山元総裁は吉田首班に同意。24日、吉田首相はよたび首班指名を受ける[4]

しかし、吉田首相は政権人事では鳩山元総裁の意を組まず、約束を反故にする動きを見せると、鳩山系の強硬派は党内に「民主化同盟」を結成、首班指名で折れた鳩山以上の反・吉田的姿勢をとり、脱党、保守新党も辞さずの態度をとる。11月28日、民同派は池田通産相不信任案の採決を欠席しこれを可決させ、池田通産相は辞任に追い込まれる[5]

12月、補正予算の採決に際し、野党であった改進党日本社会党が共同で修正案を提出、民同派もこれに呼応する動きを見せたため、吉田首相らも折れ、河野・石橋の復党を承認するのと引き換えに予算案は政府原案が成立。翌1953年1月の党役員人事では、鳩山側近の三木武吉が総務会長に就任する[6]

2月28日、吉田首相は衆議院予算委員会でいわゆる「バカヤロー発言」を行う。3月2日、この発言に対する懲罰動議が提出され、民同派および反吉田系へと移りつつあった広川弘禅派の欠席により可決。広川農相は罷免され、総務会に広川除名が提案される。3月14日に内閣不信任案が上程され、鳩山系は反対の投票と引き換えに広川除名の取り消しを要求したが、吉田派はこれを機に民同派および広川派を壊滅に追い込む目算から突っぱね、14日、不信任案は鳩山系の賛成により成立、衆議院解散される(バカヤロー解散)。民同派や広川派は自由党を脱党し、分党派自由党(鳩山自由党)を結成した。

4月19日、第26回衆議院議員総選挙投開票。自由党は第一党を維持したものの半数を割り込み、ハングパーラメントになる(定数466、自由党199、改進党76、左派社会党72、右派社会党66、鳩山自由党35、その他18)。改進党と社会党の連携がうまくいかなかったこともあり、選挙後の首班指名では吉田が受け、第5次吉田内閣は少数与党で発足する。

脚注

関連項目

参考文献

外部リンク

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