前田斉広
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金沢にて生まれる[1]。重教が弟の第10代藩主治脩に家督を譲って隠居した後、生まれた息子である。寛政7年(1795年)、兄の斉敬が夭逝したため、代わって藩主治脩の養子となる。翌寛政8年(1796年)11月に江戸に出府、松平の名字を与えられ[2]、12月に名(幼名)を亀万千から勝丸、さらに犬千代と改めた上で、通称を又左衛門、諱を利厚とする。寛政9年2月、将軍徳川家斉より偏諱を授かり斉広に改名する。正四位下左近衛権少将、筑前守に任じられる。享和2年(1802年)に、治脩の隠居により家督を継いだ。加賀守を称し、同年6月に左近衛権中将に任じられる。
治世の当初から親政を行い、藩の財政再建や政治改革を試みたが、任期中にロシアとの関係が緊張感を増して海防への強化を図る必要が生じたこと、1808年に金沢城二の丸が火災に遭ったことなど出費を強いられる出来事が続いた。また同年以降、水害などが続き米の収穫高が上がらなくなり、100万石の半分に満たない年が増えるようになった。1812年からは、江戸時代初頭に行われていた一連の農業改革(改作法)を復古させ、地域の有力者(十村)に運用を任せるとともに、1818年からは御国民成立仕法を打ち出し、藩士や百姓、町民の暮らしを安定させる経済政策を打ち出したがいずれも挫折。責任を十村に負わせて集団で処罰する出来事もあった[3]。
高い政治意欲が結果に結びつかないまま文政5年(1822年)、嫡男の斉泰に家督を譲って隠居し、肥前守を称した。文政7年(1824年)に43歳で没した。
芥川龍之介の短編小説「煙管」(1916年)では、金無垢の煙管をモチーフとして、坊主たちと役人たちと斉広(作中では名を「なりひろ」と読んでいる)との心理的駆け引きがユーモラスに描かれている。