頭曼単于
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頭曼の時代の匈奴は東方の東胡、西方の月氏が強力であり、東胡と北方の丁零に圧迫された匈奴はバイカル湖以南から陰山北麓に移動した[4]。頭曼はしばしばオルドス高原に侵入し、この地の林胡、楼煩を攻撃していたと思われる[5]。紀元前215年に秦の始皇帝の命令を受けた将軍蒙恬は30万の兵卒を率いて北征を実施し、蒙恬に敗れた頭曼は北方に移動した[6]。
頭曼は冒頓という名前の子を太子に立てていたが、のちに頭曼の寵愛する閼氏(単于の妃)が男子を生んだため、頭曼は冒頓を廃してその子を太子に立てたいと考え、冒頓を月氏へ人質として送った。頭曼は月氏の手によって人質となった冒頓を殺めさせようと策し、月氏を攻撃した[7]。しかし、冒頓は月氏の善馬を盗んで逃げ帰り、敵の善馬を奪った冒頓の勇気は匈奴中で称えられ、頭曼は彼を後継者である左賢王の地位に就かせた[8]。
冒頓はその一万の騎兵からさらに自分の命令に忠実な者だけを選出し、頭曼と狩猟に出かけた際、冒頓の指示で一斉に頭曼を射殺させた。これにより冒頓が単于となり、近隣諸国を併合し、匈奴の大帝国を築くこととなる。
脚注
参考文献
- 沢田勲『冒頓単于 匈奴遊牧国家の創設者』山川出版社〈世界史リブレット人〉、2015年。
- 沢田勲『匈奴 古代遊牧国家の興亡』(新訂版)東方書店〈東方選書〉、2015年。
- 林, 俊雄 (2005). 小松久男ほか. ed. “単于”. 中央ユーラシアを知る事典 (平凡社).
- 吉本, 道雅「史記匈奴列伝疏証 上古から冒頓単于まで-」『京都大學文學部研究紀要』第45巻、京都大學大學院文學研究科・文學部、2006年。
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