草深 (印西市)
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歴史
江戸時代は惣深新田であり、下総国印旛郡のうち。印西領・印西筋に属す。もと小金牧のうち印西牧の一部、草深野(惣深野)。
「草深志」によれば、草深野の新田開発として1636年(寛永13年)小金領千足村・新左衛門の出願、許可、失敗がある。のち、1670年(寛文10年)鰭ケ崎村元名主・清重郎ほか6名が出願、許可となり江戸町人も請負人に加わったが資金操りの方は順調ではなかった。草深野の一部が近隣村のもと入会野であったため開発反対もあったが周辺16か村に開発地の一部を分与することで解決された。
寛文(1661年~1673年)・延宝(1673年~1681年)期に徐々に新田開発が進み、1676年(延宝4年)の検地により成立。はじめ幕府領、1839年(天保10年)から浜松藩領、1846年(弘化3年)幕府領となるが、のち再び浜松藩領。村高は「元禄郷帳」2,769石余、「天保郷帳」「旧高旧領」ともに2,774石余。1676年(延宝4年)の反別下田40町4反余・下畑489町7反余、屋敷5町3反余、家数120・人数558。割渡され持添新田などとして開発された分は、結縁寺・船尾・松崎・吉田・岩戸・造谷・角田・荒野・竜腹寺・滝・小林・宗甫新田・別所・大森・鹿黒・泉新田の16か村に見える。1774年(安永2年)の家数78・人数378(印旛郡誌)。
1873年(明治6年)千葉県に所属。1889年(明治22年)飛地字関ノ台が宗像村、飛地字池ノ台が本郷村の各一部となり、本村は船穂村の大字となる[4]。