蒲生八幡神社 (北九州市)
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歴史
往昔、蒲生村虹山(巣山)の峯に多紀理比売命・多岐都比売命・市寸島比売命の三神が天降り、「我、永く此地を守らん」と告げる。そこで、里人は紫の池の辺に多紀理比売命を祀り、虹山の山頂に多岐都比売命を祀り(蒲生宮)、紫の池の北に市寸島比売命を祀った。後に、蒲生宮に応神天皇・神功皇后を祀り、蒲生八幡宮とした。
元暦元年甲辰年に壇ノ浦の戦いで平氏が敗戦。安徳帝は入水し、三種の神器も海中に沈む。源頼朝はこのことに嘆き、規矩郡(企救郡)高浜浦の漁人の長、岩松与三に神器を探し出すよう命じた。岩松は蒲生八幡宮に神器発見・安全を祈願したのち海に入り、鏡と勾玉を網に得ることができ、源頼朝に献上。岩松はこの功績により、規矩一郡を与えられるが、蒲生の神々の御神徳によるものとし、一郡すべてを神社に寄進した。
元弘・正慶・建武年間、虹山城主・規矩氏に崇敬を受け、多くの神領を与えられる。応永年間には、規矩親忠が神殿を建立。大永2年4月に小倉城主・小野田種尚より、規矩郡大野庄平田二反を与えられる。
天正のはじめに、大友宗麟の兵火に罹り、神社焼失。このことを憂いた、岩松弥兵衛(三郎兵衛)は高浜(現在の井筒屋付近)に神社を造立し、社号を規矩(企救)八幡宮(高浜八幡宮)とした。小倉城主・高橋鑑種が社殿造営し、鳥居を建立する。天正年間、小倉城主・毛利成儀(勝信)からも篤い崇敬を受ける。慶長7年、小倉城築城に伴い、細川忠興は神社が鎮座する高浜を東曲輪とするために規矩八幡宮をもとの蒲生の地(中島山)に遷し、社号を再び蒲生八幡宮とした。寛永9年に入国した小笠原藩からも篤い崇敬を受け、社殿造営等がなされた。
