薗田誠一
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千葉県出身[1]。1930年(昭和5年)東京音楽学校(現: 東京藝術大学音楽学部)卒業[1]。マルガレーテ・ネトケ=レーヴェ、ヘルマン・ヴーハープフェニッヒに師事[1]。
卒業後、戦前からリサイタル、コンサートで活動し、特にドイツ歌曲を得意とした[1]。
戦後まもなく演奏活動に復帰。門下生の柴田睦陸[2]が結成し、二期会の母体となった東京藝術大学歌劇研究部 ベルリオーズ『ファウストの劫罰』の主役ファウストを務めている[3]。ただし、二期会の結成には参加していない[4][5]。
合唱指揮も手掛けており[6]、1946年(昭和21年) - 1954年(昭和29年)には東京大学音楽部コールアカデミーの常任指揮者。1947年(昭和22年)長門美保歌劇研究所 カール・マリア・フォン・ウェーバー『魔彈の射手』合唱指揮[7]。1958年(昭和33年) - 1959年(昭和34年)名古屋合唱団常任指揮者[8]。1947年(昭和22年)と1949年(昭和24年)には東京放送合唱団を指揮し柴田南雄作品の初演を務めている[9]。訳詞を手掛けているものもある(1957年(昭和32年)6月13日 東京混声合唱団第6回定期演奏会 Oh! Quand je dors(夢に来ませ)/リスト 編曲: 柴田南雄 訳詞: 薗田誠一)[10]。
音楽教育者としては、1930年(昭和5年) - 1943年(昭和18年)武蔵野音楽学校で指導。1942年(昭和17年) - 1949年(昭和24年)東京女子高等師範学校教授。学制改革により1949年(昭和24年) - 1969年(昭和44年)お茶の水女子大学教授。この間、1959年(昭和34年) - 1960年(昭和35年)米国、欧州留学。1964年10月には城多又兵衛を理事長に日本声楽発声学会(創立当時の名称は「発声指導法研究会」)の発足に参画[11]。1969年(昭和44年) - お茶の水女子大学名誉教授。1969年(昭和44年) - 1977年(昭和52年)は名古屋芸術大学で指導にあたった[1]。
主な門下生としては、柴田睦陸[2]、小川寛興などがいる。とりわけ柴田睦陸の師であったことは特筆すべきであろう。
教職の傍ら、音楽誌等に旺盛な執筆活動を行なった。とりわけ歌唱技術をテーマとした論考が多く、第一線の指導者・研究者として活動した。また、音楽評論家としても多くの評論を残している。
1942年(昭和17年) - 1976年(昭和51年)の長きにわたり、日本音楽コンクール、全日本学生音楽コンクールの声楽部門審査員を務めた[1]。
1986年(昭和61年)8月3日死去。80歳没。
受章歴
主な舞台出演歴
- 1932年(昭和7年)12月18日 東京音樂學校 ヴァーグネル『ローエングリン』(コンサート形式、ハイライト上演 (前奏曲と第1幕))タイトル・ロール 東京音楽学校奏楽堂[12]
- 1933年(昭和8年)2月25日 武蔵野音楽学校演奏会 薗田誠一 立松房子 斎藤静子 日本青年館[13]
- 1933年(昭和8年)6月18日 東京音楽学校第67回定期演奏会 ベートーヴェン交響曲第9番 指揮/クラウス・プリングスハイム 独唱/添川はな(ソプラノ) 丹治はる(アルト) 薗田誠一(テノール) 増永丈夫(バリトン) 管弦楽/東京音楽学校管弦学部員 合唱/東京音楽学校生徒[14]
- 1943年(昭和18年)6月18 - 19日 日本交響樂團臨時公演 ベートーヴェン『第九』ローゼンストック指揮、加古美枝子 四家文子 薗田誠一 伊藤武雄 東京高等音楽院 玉川学園合唱団[15]
- 1943年11月17 - 18日 出陣学徒の為の演奏会 バッハ『マタイ受難曲』BWV244 日本交響楽団 ジョセフ・ローゼンストック 三宅春恵(sop.) 千葉静子(alt.) 薗田誠一(ten.) 伊藤武雄(br.) 矢田部勁吉(bs.) 成城合唱団(chor.) 日比谷公会堂[16]
- 1947年(昭和22年)9月4 - 8日 長門美保歌劇研究所 カール・マリア・フォン・ウェーバー『魔彈の射手』合唱指揮 東京劇場[7]
- 1948年(昭和23年)6月16 - 17日 日本交響楽団第295回定期演奏会 ベートーヴェン『荘厳ミサ曲』指揮/山田一雄 大熊文子(S) 四家文子(A) 薗田誠一(T) 中山悌一(Bar) 日比谷公会堂[17]
- 1948年(昭和23年)6月26日 日本交響楽団臨時定期演奏会 ベートーヴェン『荘厳ミサ曲』指揮/山田一雄 大熊文子(S) 四家文子(A) 薗田誠一(T) 中山悌一(Bar) 日比谷公会堂[17]