日振島
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座標
北緯33度10分17秒 東経132度17分33秒 / 北緯33.17139度 東経132.29250度座標: 北緯33度10分17秒 東経132度17分33秒 / 北緯33.17139度 東経132.29250度
海岸線
27.5 km (17.09 mi)[2]
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| 地理 | |
|---|---|
| 場所 | 豊後水道(宇和海) |
| 座標 | 北緯33度10分17秒 東経132度17分33秒 / 北緯33.17139度 東経132.29250度座標: 北緯33度10分17秒 東経132度17分33秒 / 北緯33.17139度 東経132.29250度 |
| 面積 | 4.01 km2 (1.55 sq mi)[1] |
| 海岸線 | 27.5 km (17.09 mi)[2] |
| 最高標高 | 197.7 m (648.6 ft) |
| 行政 | |
| 都道府県 |
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| 市区町村 |
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| 字 | 日振島 |
| 人口統計 | |
| 人口 | 462人(2007年8月年時点) |
日振島(ひぶりしま)は、愛媛県宇和島市の宇和島港から西方約28km、愛媛県と大分県との間の宇和海にある有人島である。また宇和島市の住所表記に使われる大字でもあり、対応する郵便番号は798-0099。なお、属島の沖の島、竹ヶ島 、横島、御五神島も大字は日振島に属する。
地名(島名)の由来
歴史
- 936年(承平6年) - この頃から藤原純友が活動を始める
- 939年(天慶2年) - 藤原純友挙兵
- 1587年1月(天正14年12月) - 九州の豊後国で行われた戸次川の戦いで敗退した土佐国主長宗我部元親一行が潜伏。
- 江戸時代には宇和島藩の領地(庄屋は清家氏が代々務め、隆盛を誇り「島大名」とも呼ばれた)
- 江戸時代から昭和時代にかけてイワシの曳網漁が続いた。
- 江戸時代末期から明治時代にかけて、水ノ子島の領有をめぐり宇和島藩と佐伯藩とで紛争があった。
- 1889年(明治22年) - 北宇和郡日振島村となる
- 昭和初期 - 困窮を極める
- 1949年(昭和24年) - デラ台風によりイワシ漁船団7統が遭難、漁民100名余が命を落とす。漁民が経験と勘をもとに、発せられていた気象特報を無視する形で出漁したのが大惨事となった原因とされている。なお、気象台が進路変更の特報を出したのは出漁後であった。
- 1949年(昭和24年) - ねずみ騒動始まる(1961年まで続く)
- 1951年(昭和26年) - 明海部落の大火(役場が焼け戸籍喪失、旧庄屋屋敷も焼ける)
- 1958年(昭和33年) - 4村との合併により宇和海村(うわうみむら)となる
- 1964年(昭和39年) - 電気の海底ケーブル本格送電
- 1974年(昭和49年) - 宇和島市に編入
- 1978年(昭和53年) - 日産200tの海水淡水化装置完成(それまでは井戸水を利用した水道)
- 1990年(平成2年) - 水道 山財ダムから海底送水
社会
- 小学校 宇和島市立日振島小学校
- 中学校 島内になし。島外の宇和島市立城南中学校(宇和島市文京町)で寄宿生活(2013年度までは宇和島市下波(したば)の宇和島市立宇和海中学校(2014年度で閉校)であった)